おとなりさん

          おとなりさん
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 東京の大学への進学を機に一人暮らしを始めたはいいけれど、数ヶ月も経てばこまごまとした生活の面倒臭さが身に沁みてくる。
 たとえばトイレットペーパーやティッシュペーパーだ。気がつくとストックを切らしていることが多い。「あれ、もう無いのかよ」そんな呟きを、おれはもう何回も経験した。
 無ければ困るのに、コンビニで買い続けるのも金銭的に厳しいものがある。そこでアパートから離れた場所にある大型スーパーまでやってきたものの、本日は特売日でもあり、開店前にかなりの行列が出来ていた。
「……やあ」
「あっ……、どうも」
 鼻歌まじりで行列の最後尾につくと、となりの部屋に住んでいる田中さんが先に並んでいた。同じ日に入居したにもかかわらず、挨拶を交わす程度だから詳しくは知らないけれど、田中さんは地方の本社から東京の営業所へと単身赴任しているのだと、話し好きな大家さんから聞かされていた。
「……なんか、すごい人が多いですね」
「この辺りでは品揃えが豊富なうえに、なんといっても一番良心的なスーパーだからね。特売日ともなると仕方ないよ」
「ずいぶん詳しいんですね」
「結婚が早かったから、一人での暮らしは初めてでね。そのせいか生活費の無駄を省けって妻が口やかましくて、いやでも詳しくならざるを得ないんだよ」
 苦笑しながらも、田中さんは持参したスーパーのチラシを広げて見せてくれた。そのチラシには、あちこち赤い丸印がついていた。
「妻の受け売りなんだが、こうしておくと目玉商品の買い忘れ防止に役立つんだよ。ちなみに、君はなにを狙っているんだい」
「まずはトイレットペーパーとティッシュペーパー。あと、安ければ洗剤とシェービングクリームですね」
「あまり使った覚えがないのに、どんどん減っていってしまうものだよね。それから歯磨き粉や、シャンプーなんかも……」
「本当にそうなんですよ」
「電気やガスや水道代も思った以上にかかるから、けっこう大変じゃないのかい」
「この前請求書を見てビックリしちゃって」
「分かるなあ。請求書の金額を妻に伝えたところ、私も怒られてしまったからね」
 生活の苦労話で盛り上がり、おれと田中さんはすっかり意気投合していた。これからはお互いに節約を心がけよう、なんてかたい握手まで交わしたけれど、どうも行列に並んでまでする会話ではなかったようで、周りのおばさん達がくすくすと笑い出していた。
 家庭を守ってきたおばさん達からすれば、おれと田中さんの苦労話はまだまだ青二才程度ってことなんだろうか。戸惑うおれの横で田中さんは照れ臭そうに咳払いをすると、さりげなく話題を変えてくれた。
「そういえばさっきの鼻歌のあの曲、あれはなんてタイトルだったかな。聞き覚えがあるんだが、なかなか思い出せなくて」
「え、なに言ってるんですか。あの曲って田中さんが毎朝目覚まし代わりに携帯で鳴らしている曲じゃないですか。かすかな音だしすぐに止まるから迷惑とかじゃ無いですけれど、田中さんの部屋から漏れ聞こえてきますよ」
「……いや、私ではないよ。私の方こそ君の部屋と面している壁の向こう側から聞こえてきているから、てっきり君が毎朝鳴らしていると思っていたんだ」
 田中さんの目は、とても冗談を言っている感じではなかった。とすると、毎朝壁越しに聞こえてくるあの携帯の曲は……。
「……あの、田中さんは寝起きに煙草を吸いますか。今朝はなかなか火が点かなかったようで、何度もライターを擦っていましたが」
「三年前に妻に止めさせられて以来、一度も吸っていないよ……。もちろん、君でもないってことだよね」
 とてもいやな予感が、どんどん胸に積み重なってくる。考えたくも無いけれど、生活必需品の減りの早さは、決しておれ一人だけの責任じゃないってことなのか。
「……田中さんは部屋に帰ってきた時に、たったいままで誰かが部屋の中にいたんじゃないかって感じを抱いたことはありませんか」
「たしかに人の温もりというか、息吹のようなものを感じたことはある。てっきり、人恋しいがゆえの錯覚とばかり思っていたが……」
 おれと田中さんはどちらともなく行列を離れると、一目散にアパートへ向かって駆け出した。
 ……いや、もっと正確にいうならば、おれの部屋と田中さんの部屋の隙間に存在しているはずの、見ず知らずの誰かに向かってだ。