地虫、穴を出づ
ある朝ふと目覚めると、枕元に女性がいた。
目を凝らしてみたら、かなりの美人でスタイルもよい。
さらに目を細めると、彼女はなにも身に着けていなかった。
私は目を閉じた。まぶたの裏に焼きついた残像は、それでも妖艶だった。私は大きく息を吸い、そして吐いた。
ゆっくりと目を開けると、腰に手をあてて身をくねらせながら、頭から触覚を生やした豆粒大くらいの彼女が、悠然と歩み去る後姿が見えた。そして振り返りざまに思わせ振りな視線を投げて寄越すと、目覚まし時計の背後に消えてしまった。
起床時刻の三十分前。二度寝は出来なかった。
その翌日には、スポーツタイプの高級外車が現れた。シーツに皺を寄せることなく、颯爽と風を切るように疾走していた。
羨望の眼差しで眺める私の瞳には、着慣れないシックなスーツに着られて運転席に座る小さな私が映っていた。そぐわないのは、いなめない。だが、ゆらゆら揺れる触角以外は悪くなかった。
さらに翌日、くしゃみで目が覚めてみると大変なことになっていた。
ベッドの上では散乱した札束を乗り越えて庭付き一戸建てが闊歩し、華やかな女優達が居並ぶ頭上を赤マントをひるがえした青タイツ姿の私が飛び、地方の子会社に栄転される年下の上司の送別会が開かれ、国の未来を訴える私の街頭演説を涙ながらに私達が拝聴し、その横では見事なホールインワンを決めていたり、あまり似ていない銅像が胸を張っていたり、歴史教科書の一ページを飾っていたり、さらには宇宙服に身を包んで船外活動に勤しんでいたりと、収集がつかなくなっていた。
そんな中、ひと際目を引いたのが妻だった。出会った頃の可憐な微笑みで二人がけのベンチに腰掛けている姿は、相変わらず美しかった。ずいぶん見なくなっていた微笑みが、私の胸を締めつけた。
するとどこからか年下の上司が現れ、妻の隣に座った。どこまでも厚かましい奴である。妻は困っている様子だった。私はここぞとばかりに指先に力を集中させ、ベンチから弾き飛ばしてやった。唖然としている妻に、私は小さく頷いた。お前のためなら、そういう思いを込めてだ。
だが、私は噛みつかれた。年下の上司にではなく、妻にだ。私は反射的に手を振り払ってしまい、妻はどこかへと放り出されてしまった。そうして私は、妻を見失った。疼くような指先の痛みは、後味の悪い驚きに比べれば大したことではなかった……。
いつになく窓際に差し込む春の日差しは心地よく、あと三十分もすれば昼休みだというのに、まぶたの重みにあらがう気力は湧いてこない。
焦点の定まらない目でどことなく見ていると、昼日中からデスクの上に年下の上司が現れた。こちらを見上げているのに、見下したような表情で腕組みをしている。
私は気取られないように体を沈めると、慎重に靴を脱いだ。今朝妻に噛まれた指先が疼き出し、ゆらゆら揺れる触角が余計しゃくに障った。ゆっくりと振り上げた靴を持つ手が、心なしか震えているようだ。だが、狙いは定めた……。
パソコンを打つ音、電話で応対する声、忙しなく響く足音、雑談、叱責、雑談、叱責。ぼんやりと遠くから聞こえていた音達が一瞬にして途絶え、社内はしんと静まりかえった。
同僚達が、こちらをうかがっている。私は笑っていたかもしれない。デスクに靴を振り下ろした時の目障りな年下の上司を叩き潰した音が、いまだ耳元で脈打っていたのだ。
私は大きく息を吸い、あらたに靴を持つ手に力を込めて心を構えた。触角のない年下の上司が、こちらへと歩き出しているからだ……。