カレンダー

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 慌てて掴んだ三月十日が激しく身をよじって俺の手から逃れ、するりとキッチンの排水口へ飛びこんだ。
 カウントダウンするように消えていった日にち達も、残るは今日のみ……。
 俺は溜め息とともに、カレンダーを十二月のほうから逆にめくった。
 十二月には雪原で戯れる少年と犬、十月には夕暮れの空を舞うトンボ、八月には夜空を彩る花火。時節を描いたほのぼのとした絵だけが、カレンダーとしての役割をかろうじて保っていた。
 日にち達は、どこへ消えたのだろう。
 平日の黒、土曜日の青、日曜日や祝祭日の赤。それらの日にち達がいつから姿を消し始めたのか、正確なところは分からない。
 偶然にも先週トイレで“大”の水流によって赤い十六日がぐるぐると押し流されていくのを発見し、見覚えある姿の影を辿ってカレンダーをめくるまでは、なにが起きているのか気づいてさえいなかった。その時には九月の中旬までが、すでに消え去っていた。
 それからというもの会社では仕事が手につかず、夜は寝る間を惜しんでカレンダーを見張った。仕事中は仕方ないとしても、日にち達は夜中でも光らせた俺の眼を掻い潜り、ぴょんぴょん跳ねながら逃げていった。むしろ俺が気づいてからというもの、帰宅してから出勤するまでの間を逃亡の時間帯と取り決め愉しんでいるようだった。
 なかでも八月の逃亡劇は最悪だった。ついうとうとしていた俺が眼を覚ますと、眼の前では漠然と想い描いていた夏休みの計画が、八月の日にち達総出で演じられていたのだ。
 どこかの砂浜でサマーベッドに見立てた八に十の位が横たわり、通りかかった赤い二十日に声をかけた。すると打ち寄せる波や砂浜を表現していた他の日にち達が機敏な動きを見せ、場面は夜に転換され、打ちあがる花火を背景に十八日と二十日が仲睦まじくキスを交わし、そのまま絡み合ってもつれ合い、数字より記号、もしくは前衛芸術のオブジェとでもいえそうな姿になって幕がおりた。
 独り身の願望を露骨にさらされ唖然とする俺を尻目に、日にち達はカーテンコールに応える役者らしく整列してお辞儀をすると、楽屋に戻るようにその場を後にし始めた。
 そのまま消え去るつもりだろうとふんだ俺は、日にち達を追いかけた。期待を寄せる八月を、曇りがちな人生の停滞感を祓ってくれそうな八月を、カレンダーから失いたくはなかった。
 だが日にち達はすこぶる狡猾だった。いくつかの小集団に分かれ逃亡を図ったのだ。
 ある小集団は先達にならいトイレから流れ去り、また他の小集団は風呂場の排水口へ飛びこんだ。日にち達はそこら中ぴょんぴょん跳ねまわり、下級生と鬼ごっこをしてその下級生を延々と鬼にさせておく上級生のように、俺をあちこち引きずりまわした。
 息はあがり、額に汗が滲んだ。それでも日にち達は手加減してくれもせず、舌を出すようにして空調の吹き出し口やコンセントの差込口へ消え去った。
 十二月も十一月もその他の月も、今年迎えたかもしれない出来事を背負い消えていったのだろう。目標やおぼろな予定というまだ見ぬ日々が、次々と零れ落ちていった。この先という未来から、現在という俺に向かって。
 新鮮な空気を求めベランダへ出ると、二十五日から三十一日までが、ゆらゆらと手すりのうえに並んでいた。無駄だろうと思ってはいたが、なだめすかしも必死の懇願も聞き入れられなかった。八月最後の週である日にち達はぴょんとひと跳びすると、穏やかな風に運ばれ夜空にとけこんでいった。
 そうして八月は消え去り、七、六、五、四月も失い、三月十日もキッチンの排水口へ飛びこんでしまった。
 カレンダーには今日の日付である九日が、かろうじてぶら下がっている。しかも日付が変わって半日が過ぎたせいか、その姿はかなり薄れてもいた。だが九日はすこしでも眼を離した隙に逃げ出すつもりでいるようだ。
 カレンダーをリビングの一番いい場所に吊るしてやったというのに、なんて恩知らずな日にち達だろう。今日という土曜日の休日くらい見逃してやろうなんて心づかいは、雀の涙よりもないようだった。
 俺は覚悟を決め、瞼を閉じた。あえて隙を見せ、ぴょんぴょん逃げる九日を捕まえるために。そしてカレンダーへ引きずり戻し、魂で叫んでやるのだ。ここに我あり、と。
 高鳴る鼓動を七つまで数え、そっと眼を開ける。予想通り九日の姿はない。これまでなめさせられた苦杯で敏感になった神経を研ぎ澄まし集中する。九日はどこへいった? こそこそする気配を感じる。寝室……いいや。ベランダ……キッチン……いいや。トイレ……違う、違う、違う。
 これはそう……、玄関だ。
 あらかじめ低い姿勢でいた俺は、放たれたバネのようにリビングを駆け出した。マンションの賃貸料と構造上の問題から数歩たらずで玄関に着くと、ドアの隙間を潜り抜けようとほふく前進をする九日を発見した。
 踏みつけてやれと、ありったけの力で足をおろす。だがしかし、さすがに九日も九日だけのことはあった。迫り来る足音を聞きつけたのだろう。やおらほふく前進が倍速になり、スリッパが触れるか触れないかの際どい瞬間に、しゅしゅっとドアを潜り抜けてしまったのだ。
 いつもならこの時点で諦めるところだが、今回はそうはいかない。いや、いくわけがない。俺は焦燥に駆られながら靴を履くと同時にドアを開け、地の果てまでもと部屋を飛び出した。
 九日は数歩先の廊下で右に左にぴょんぴょん跳ねていた。だがこちらに気づくと尻を叩くように一瞬止まり、再び廊下の先へと跳ねていった。
 これまでのどの日にち達よりも、九日は小生意気な奴だった。手が届くかと思えば届かず、靴の餌食になるかと思えばさっとすり抜ける。その九日は俺の部屋から五部屋先の、開け放った玄関ドアの前で立ち往生していた。
 わずかな隙間でもすり抜けられるくせに、またも愚弄しているに違いない。あなどるなかれ九日よ。肥大した天狗の鼻はへし折るに限る。
 俺は跳んだ。まるでスカイダイビングでもするかのように、廊下の微風を受け大胆かつ華麗に九日へ手を伸ばしながら。
 だが、俺にパラシュートはなかった。
「あのう……大丈夫ですか? なんだかすごい音がしましたけど」
 玄関を開け放っている部屋から顔を覗かせた女性が、息をあえがせ起きあがる俺に手をかしてくれた。
「すみません、いま引越しの作業をしているもので、何かご迷惑をおかけしましたか?」
 いわれなき責任をこれ以上感じさせてはまずいと、したたかに打ちつけた腹をさするのをこらえ頭をかいた。
「いいえ、とんでも、ない。ちょっと、慌てて、たもので、足が、もつれ、ちゃい、まして……は、はは」
 彼女は俺の足元にはっと眼を見開くと、どこか嬉しそうにくすくす笑い出した。
「右足に革靴で左足にサンダルじゃあ、たしかにバランスは取れないですよね」
 自分でそれと分かるほど、みるみる顔があかくなる。
「あたしもよくやっちゃうんですよ、朝とか急いでいてついうっかり。大学の時はそのまま講義に駆けこんで、よくからかわれました」
 頭をかく手がゆっくりになり、呼吸が落ち着いた。
「この春から社会人なんだから気をつけなさい、って両親からも注意されてるくらいなんですよ」
 彼女とはその場で十分ほど立ち話をした。自己紹介から始まり、近所のコンビニやスーパーの場所を教え、最寄り駅への近道なども教えた。彼女は俺の一言ひとことに丁寧に頷き、興味を持って聞き入ってくれた。一度恥をかいてしまったせいか、妙な具合に構えた気負いもなく自然と会話が進んだ。
 引越し業者が重そうな荷物を運んできたのを潮時として、俺は部屋へ戻った。結局取り逃がしてしまった九日のことや、失い続けてきた日にち達のことなど、その時にはもう頭になかった。
「あの、それじゃ」
 といった俺に対し、
「はい。あの、それじゃあ……また」
 と応えた彼女の声が耳に残っている。
 この後、彼女と会った時は美味しそうなケーキ屋のことも教えてあげよう。そして、そのケーキ屋でコーヒーを飲めたらと思う。
 様々に想い描くだけだったこれまでを背負って逃げていた九日にぴょんと体当たりされ、その九日が弾けて消え去ったのにも気づくことがなかった彼女と、これから先ぜひとも一緒に。