萌芽

            萌芽
250_25_syo2.png


 あれは六日前のことでしたね。
 歯ブラシの柄が、青色になっていたのは。
 眼が点になりましたよ。
 青色の歯ブラシなど、買うわけがありませんから。むかしから決めているのですよ。歯ブラシなら緑色に限る、とね。
 しばし凝視させられました。
 私のものではありえない、華やかすぎる青色の歯ブラシを。

 あれは五日前のことでしたね。
 引き出しのなかに、クリーム色の靴下が並んでいたのは。
 おまけに西洋の城を模したワンポイントの刺繍まである始末。履いてみようなど、ちらとも思いませんでした。
 苦労させられましたよ。引き出しの奥へと押しやられていた、私の靴下を探し出すのにね。
 どうも馴染まないのです、無地の黒色でないと。

 あれは四日前のことでしたね。
 頼んだ覚えのない出前が届いたのは。
 しかも、すしですからね。困りました。
 食べられないのですよ、生の魚は。
 軽くなったくたびれた財布をながめ、がりをつまむのは辛いものがありました。
 どこかの若者による悪ふざけか、それともご近所の嫌がらせか、悩みましたね。ええ、本当に悩みましたとも。

 あれは三日前のことでしたね。
 見も知らぬ人物から親しげに背中をたたかれ、友人として声をかけられたのは。
 呆気にとられる私に、あちらさんも呆気にとられていましたっけ。
 いやはや、心の底から驚きましたよ。
 数時間後、その見も知らぬ人物から電話がかかってきたのですから。
 こんな出来事があったのだと、背中が似ていたのだと、私を誰かと思い違いしたまま、楽しげに話していましたよ。
 私は、一言も発せずに電話を切りました。

 あれは二日前のことでしたね。
 部屋の雰囲気がどことなく浮かれ、そわそわと弾んでいるようになったのは。
 妙なものです。自分自身が住まう部屋において、他人の部屋にでもいるような居心地の悪さを感じるというのも。
 窓から見える桜の木をながめ、私、ふと思いましたよ。
 蕾が膨らんでいるな。もうすぐ花が咲くな。いつからだろう。そう、いつからこの桜は不要な葉を落とし、花を咲かせる仕度を始めたのだろうか、なんてことを。

 あれは昨夜のことでしたね。
 泥酔した女性が慣れた様子で、さも当然のように、私の部屋にあがりこんできたのは。
 心臓が止まるかと思いましたよ。
 酒臭く要領を得ない言葉を継ぎ合わせてみると、その初対面の女性が私の妻であると判明したのですから。
 私はソファーで頭を抱えました。占領されたベッドの上から響いてくる、高いびきを聞かされながらね。

 ねえ、あなた。眼の前のあなた。教えてくれませんか。私、なにかしたのでしょうか。
 ……嫌な態度ですね。笑っている場合ではないのですよ。なぜです。なぜそうまでして、笑うのです。
 可笑しいですか、私。
 可笑しいのですね、私が。
 あなたは、なに者ですか。
 私は……私とは、いったい……。
 おや、なんでしょう。なにかが割れる寸前の、加えられ続ける圧力にあらがい軋んでいる悲鳴のような、この耳障りな音は。
 音が大きくなってきます。耳を塞いでしまいたくなるほど、騒がしく唸っていますよ。
 あなたなのですか。
 いいや、どうやら違うようですね。
 この音は……私の……底からくる……。
 いままさに割れようとしているのは、鏡に映るあなたではないのですね。
 あなたは、待ち望んでいた。
 すべてを。この瞬間を。
 音が圧してきます。勢いを増して。私を。
 音が、音が、……音。