萌芽
あれは六日前のことでしたね。
歯ブラシの柄が、青色になっていたのは。
眼が点になりましたよ。
青色の歯ブラシなど、買うわけがありませんから。むかしから決めているのですよ。歯ブラシなら緑色に限る、とね。
しばし凝視させられました。
私のものではありえない、華やかすぎる青色の歯ブラシを。
あれは五日前のことでしたね。
引き出しのなかに、クリーム色の靴下が並んでいたのは。
おまけに西洋の城を模したワンポイントの刺繍まである始末。履いてみようなど、ちらとも思いませんでした。
苦労させられましたよ。引き出しの奥へと押しやられていた、私の靴下を探し出すのにね。
どうも馴染まないのです、無地の黒色でないと。
あれは四日前のことでしたね。
頼んだ覚えのない出前が届いたのは。
しかも、すしですからね。困りました。
食べられないのですよ、生の魚は。
軽くなったくたびれた財布をながめ、がりをつまむのは辛いものがありました。
どこかの若者による悪ふざけか、それともご近所の嫌がらせか、悩みましたね。ええ、本当に悩みましたとも。
あれは三日前のことでしたね。
見も知らぬ人物から親しげに背中をたたかれ、友人として声をかけられたのは。
呆気にとられる私に、あちらさんも呆気にとられていましたっけ。
いやはや、心の底から驚きましたよ。
数時間後、その見も知らぬ人物から電話がかかってきたのですから。
こんな出来事があったのだと、背中が似ていたのだと、私を誰かと思い違いしたまま、楽しげに話していましたよ。
私は、一言も発せずに電話を切りました。
あれは二日前のことでしたね。
部屋の雰囲気がどことなく浮かれ、そわそわと弾んでいるようになったのは。
妙なものです。自分自身が住まう部屋において、他人の部屋にでもいるような居心地の悪さを感じるというのも。
窓から見える桜の木をながめ、私、ふと思いましたよ。
蕾が膨らんでいるな。もうすぐ花が咲くな。いつからだろう。そう、いつからこの桜は不要な葉を落とし、花を咲かせる仕度を始めたのだろうか、なんてことを。
あれは昨夜のことでしたね。
泥酔した女性が慣れた様子で、さも当然のように、私の部屋にあがりこんできたのは。
心臓が止まるかと思いましたよ。
酒臭く要領を得ない言葉を継ぎ合わせてみると、その初対面の女性が私の妻であると判明したのですから。
私はソファーで頭を抱えました。占領されたベッドの上から響いてくる、高いびきを聞かされながらね。
ねえ、あなた。眼の前のあなた。教えてくれませんか。私、なにかしたのでしょうか。
……嫌な態度ですね。笑っている場合ではないのですよ。なぜです。なぜそうまでして、笑うのです。
可笑しいですか、私。
可笑しいのですね、私が。
あなたは、なに者ですか。
私は……私とは、いったい……。
おや、なんでしょう。なにかが割れる寸前の、加えられ続ける圧力にあらがい軋んでいる悲鳴のような、この耳障りな音は。
音が大きくなってきます。耳を塞いでしまいたくなるほど、騒がしく唸っていますよ。
あなたなのですか。
いいや、どうやら違うようですね。
この音は……私の……底からくる……。
いままさに割れようとしているのは、鏡に映るあなたではないのですね。
あなたは、待ち望んでいた。
すべてを。この瞬間を。
音が圧してきます。勢いを増して。私を。
音が、音が、……音。