あくび
助手席で現金の詰まったバッグを撫でていた男が、運転席の男に笑みをなげた。
「あんがい楽勝だったな」
「だからいったろ。くそたかい利息でたんまり儲けやがって、因果応報ってやつさ」
都会の交差点で信号待ちをしている車内では、興奮さめやらない二人の男が、互いの健闘を祝し肩をたたきあっていた。
「山分けで九百万ずつか。これでコンビニ弁当生活ともおさらばだな」
「ああ、俺たちの血と汗が滲みこんだ金だ。なんかうまいもんでも食いにいこうや」
一時間ほど前、彼らは通いなれてしまった闇金業者のもとを訪れていた。といっても、返済日を延ばしてもらう詫言を抱えてではなく、覆面をかぶり鉄パイプやナイフ、おまけにガソリンまでを持参してではあったが。
「やっとツキがめぐってきたようだぜ」
「なら、俺とひと勝負してみないか」
指先でハンドルをコツコツとたたき人の流れの絶えない横断歩道を眺めていた男が、ここぞとばかり運試しを持ちかけた。
「あくびはうつるってはなし、聞いたことあるだろ」
「そういや、ガキのころに聞いたな」
「あの娘を見てみなよ」
二人の前を、女子高生があくびをしながらのんびりと通り過ぎていく。すると、反対側からやってきたサラリーマンがすれ違いざま、あくびを引き継ぐように口を開けた。
「ほら、これで一人目だ。このまま五人にうつったら、晩飯をおごってくれよ。もし失敗したら……」
「こっちがおごってもらうってわけか。悪くない、乗ったぜ」
こうして、賭けは成立。
春のうららの昼下がり、あくびは行方を見守る二人の前をいったりきたり、あっさり五人目にうつった。
「よし、晩飯はもらった」
「くそっ。なあ、もうひと勝負たのむよ。今度は、そうだな、一万でどうだ」
そもそも、賭け事と縁の切れない二人である。
「よっしゃ、いただき」
「ああ、ちくしょう。もういっちょう」
「これで、五万」
「なんだよ、そこであくびをするかね」
「十万、と」
「なめやがって、次だ、次」
「すまんな、五十万」
「冗談じゃねえ、ふざけんな」
闇金業者を襲撃した興奮が負けこみの焦燥にあおられ、助手席の男の眼はみるみる血走っていき、呼吸は荒くなっていた。
「なあ、もういいんじゃないのか」
「なにいいやがる、勝ち逃げは許さねえぞ」
互いに、引き時を知らない二人でもあった。
「わかったよ。そろそろ信号も変わりそうだからな、あと一回がいいとこだ」
「今度の勝負は五人じゃなく、十人に増やしてくれ。そのかわり、いままでとは逆にあくびがうつるって方に賭けさせてもらう。残りの金を全額つぎこんでな」
「おいおい、ツキは俺の方にめぐってるんだぜ。いいんだろうな」
「乗るのか、乗らねえのか、どっちだ」
「この勢いを逃すかよ」
最後の賭けが動き出し、あくびは五人目を越え、六人目、七人目、と順調にうつっていき、車内の空気はぴんと張り詰めた。
「よし、そのままそば屋に入って消えろ」
「ほらほら、入れ違いに出てきたやつ、口を押さえちゃいるが、これで八人目だぜ」
「たまらないな、ぞくぞくする」
「こいよ、こいよ、こいってんだ」
そば屋から出てきた男が追い抜かれた瞬間、とうとうあくびは九人目に到達した。だが、あくびは二人の前を猛スピードで横切っていく。
「ははは、九人目は車道に出ちまったな」
「宅配ピザの原付なんて、そんなのありかよ」
その時、後続車からクラクションが苛立たしげに響いた。信号が青に変わっていたのだ。運転席の男は、慌ててギアを入れた。
「待ってくれ、あと一人なんだぜ」
「悪いけどな、俺たちの立場も考えてくれよ。面倒は避けなきゃならんだろうが」
無情にも車は発進。助手席の男は宅配ピザの原付が走り去った方向を凝視していたが、その顔が突如、満面輝き出した。
「やった、勝ったぞ。おい、見てみろよ」
ついに、あくびは十人目にうつった。その人物はまぶたをきつく閉じ、これでもかと大口を開け、長々とあくびをしている。
「最後の最後に、ツキがきたぜ」
「なにいってんだ、このばかやろうが」
二人の車の側面へ、赤信号を見落とした大型トラックが迫っていた。