熱帯夜

          熱帯夜
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「ねえ、お父さん。あたし、肩が痛いし疲れたよ」
「あと少しだけ我慢しなさい」
 寝つけぬままに深夜も一時を過ぎた頃、重くよどんだ熱気をすり抜けながら囁きあう声が聞こえてきた。
「……もう無理だよう」
「そんな事でどうするんだ。こんな寝苦しい夜にクーラーも扇風機もない部屋で頑張っている、あの若者に申し訳が立たないだろう」
 囁き声とはいえ充分に夜中であり、暑苦しくもあり、耳障りでもある。どうにか寝入れそうだったタイミングを奪われた俺は、苛立ちながら網戸越しに外を覗いた。
「ねえ、こっちを見てるよ」
「余計な事は気にせずに、もっと力を込めなさい」
 どんよりとした月明かりの路上に、その親子はいた。ボロアパートの二階にある俺の部屋を見上げながら、小学生くらいの娘を連れた年配の父親が、照れ臭そうに会釈をしてくる。
 流れ落ちる汗が目に沁みるが、俺は蛇に睨まれた蛙のように動けない。こんな時間に、部屋の前の路上で、年の離れた親子が、なぜだかバスタオルを振りまわしているからだ。動くに動けないのも、仕方がない。と、俺は思う。
「ふんっ、ふんっ、ふんっ、ふんっ」
 一定のリズムを刻み、頭上で小気味よくまわるバスタオル。そして、十回に一回の割合で手首のスナップを利かせ、上方へと弾き上げる。この一連の動作を、親子が息を合わせ行っていた。
「ねえ、お父さん。そろそろあのお兄さんの部屋の中でやった方が、よくない?」
「いや、第二段階に進むのは、まだまだ時期尚早だな。こういった事は、焦ってはいけないんだ。いきなり部屋に上がり込んでは、大騒ぎになってしまう。最初から我々に理解を示す人は、なかなかいるものじゃないんだよ」
「でも、あたし達がいなければ、あのお兄さんの周りはもっと熱い空気で一杯でしょ?」
「あの若者も、いずれは分かってくれるさ」
 さっさと窓を閉めるべきだろう。けれども、俺の方から動きを見せてしまう事に、ものすごくためらいを感じてもいる。
「しかし、今日ほどやっかいな熱帯夜も珍しい。こうなれば倍速でいこうと思うが、ついてこられるかい?」
「はい」
「うん、よい返事だ。お前も段々と大人になってゆくなあ」
「やっぱり、ちゃんとしないとね。だって、あたしの事をずっと見つめているんだもん、あのお兄さん」
 動けないだけの俺の前で、消極的な期待と積極的な誤解が、勢いを増しながら仲良くバスタオルを振りまわし続ける。
「喜んでくれてるといいな」
「あの若者が寝苦しい夜に、我々が地表に残る熱気と上空の空気を入れ替える。こうしている時と、していない時の違いを肌で感じれば、きっと喜んでくれるだろう」
 たしかに、クーラーも扇風機もない部屋で夏を凌ぐのは辛いものがある。とくに熱帯夜は最悪だ。眠りたいのに暑くて眠れず、眠らなければという焦りが、かえって頭を冴えさせる。この五日間、俺は睡眠不足でふらふらだった。
「あのお兄さんの目の下のくまが、はやく取れるといいな」
「駅で見かけた時はもしやと思ったが、案の定こんな時間まで眠れていない。こんな時こそ、我々の出番なのさ。あの若者も、今日からぐっすり眠れるだろう」
 どうやら俺は、見ず知らずの親子に心配をされてしまうほど顔色が悪かったらしい。そこのところは、俺も反省する。でも、今夜眠れないのは、決して暑いからだけじゃあない。
「ねえ、お父さん。人の役に立つって、なんだかいいね」
「……思い出すなあ、母さんとの出会いを。最初は戸惑っていた母さんが、最後には父さんを理解してくれてね。ながいながい時間をかけて通ううちに、徐々にお互いの距離と心が近づいてゆく。父さんは母さんの役に立っていると、心の底から感じたものさ。……はははっ、こんな話、お前にはまだ早かったね」
 娘は頬を膨らませると、俺の事をじっと見上げた。そして、まるで距離を縮めでもするかのように、一歩だけ前に進み出た。
 驚きの表情でその様子を見ていた父親は、一瞬だけ敵意のこもった視線を俺に向けたあと、哀しげに娘に語り出した。
「いいかい、今はお前の気持ちだけではどうにもならない事があるんだ。だから、お前が一人でも熱気を払えるような一人前になるまで、ゆっくり時間をかければいい。あの若者も、いつの日か、お前に理解を示す時がくるかもしれないからね」
 もう、駄目だ。この親子は深夜一時過ぎの路上で、勝手に何を言い出しているのだろう。そもそもバスタオルを振りまわす行為自体が、俺の理解出来る範囲を超えている。
「それで、お父さん。第二段階にはいつ進むの?」
「お前は、一人前になるまでは駄目だ」
「じゃあ、あのお兄さんは今より涼しくならないよ」
「大丈夫だ。部屋の熱気を外に送り出す第二段階はお父さんに任せて、お前は外でその熱気を上空の空気と入れ替えていなさい」
「……はーい」
「しかし、第二段階に進むのは、来年か、再来年にしようじゃないか。今年は、もっと我々に慣れてもらわなければならないからね」
 全身から汗が引いていくのが感じられ、背中の辺りに寒気がする。熱帯夜が続く限り、この親子はバスタオルを振りまわしにやってくるらしい。しかも、来年か再来年には俺の部屋に上がり込むとも明言した。
 ……この先、どうなってしまうのか。それが思い描けないだけに、不安だけが募る。そして、寝不足のせいか頭がくらくらと揺れ出し、瞼までが急に重くなって、俺は眠気に耐えられず、布団の上へと崩れるように横になってしまった。
 が、その一瞬……、窓の外が視界から消えるその一瞬に、俺に向かって拳を突き出した父親が、満足気に親指を立てているのを見てしまった。 
 ……違うって、あんたら親子の成果じゃないって。俺はただ、眠いだけなんだ。……だいたい、バスタオルなんか振りまわしても意味ないだろ……それにしても…ああ…眠い……。