拝借

            拝借
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「すまんね、ちょっくら場を借りるよ」
 玄関の引き戸を開けるやそう言ったなり、いまにも朽ち果てそうに痩せほそった老人が、いきなり前のめりにぶっ倒れた。
「ちょっと、なんなんですか。まいったな」
 見た目を裏切らず朽ち果てたのか息を確かめようとすると、殺虫剤によって動かなくなった害虫がティッシュに包もうとする直前に飛んで抗ってみせるようにして、老人はにゅうっと腕を伸ばし、廊下を這いずって進み始めた。
「ですから、ほんと困るんですって」
 私は慌てて老人の足首を掴んだ。やっかいごとを家の奥に進ませるつもりはない。しかし老人はぶつくさうわ言のように呟きながら身をくねらせ、するりと私の手を逃れてしまった。湿って臭うくたびれた靴を脱ぎ捨てて、老人は意外な速さでくねくねと這っていく。
「……すでに霞み始めた目では最適な家を選んでいる余裕もなかったが、一か八かの飛び込みが吉と出たわい……出迎えた男は思慮深く優しげな壮年の人物……古風な趣を残すこの家ならば、頃合の欄間もあるだろうて……」
 ひたひた廊下を這うヤモリにするよう箒の柄で老人を突つき、どこか他の家へでも追い払おうと考えたが、あいにく箒はこの先の納戸にしまってあった。
 いまさらながら安易に玄関を開けたことを悔いた。これまで訪問販売員に幾度居座られたことだろう。我が家では産地不明の高級玉露や、羽毛なのに重くて薄い布団などが雑多に折り重なっている。
 両親が存命であったらなんと言うことか。似た傷をもつ父なら婿養子の立場からとばっちりを恐れて口を噤んでいるだろうが、母ならば、一旦引くと相手に呑まれ続けて骨までしゃぶられるから先祖代々の誇りで踏ん張ってしゃんとしなさい、と言うに違いない。
 いつもながら、そう出来ていたら、どれだけよかったかと思う。
 けれども残念なことに、私は母似ではない。
 だは、さすがに手をこまねいてはいられなかった。這い進みながら服を脱いでいく老人は、いまや上半身裸である。ここで食い止めなければ。私は老人の腰に飛びついた。
 ぶっ、ぶぶうぅぅ……ぷぷっ。
 しかし、すでに緩くなったらしい括約筋から不意に反撃され、後退を余儀なくさせられてしまった。私には口や鼻を覆う暇も、息を止める余裕さえなかった。
「ほう、これは素晴らしい欄間じゃわい」
 肺の空気を入れ替えるべく激しく喘ぎながら起きあがるもすでに遅く、襖を這い登った老人は、欄間の隙間に身を捻じ込みながら器用にズボンをさげた。なんだかミイラか即身仏みたいだな。萎えかける気力を奮って引きずり降ろそうとする手に、老人は下着から抜き出した手紙を押しつけてきた。
「説明しておる暇はないのじゃ。すでに時はきた。心して読んでおくように」
 老人の手紙を要約するとこうなる。
 一、これより脱皮を行なう。脱皮後、それはそれは可愛らしい赤子となる。
 二、脱皮中は手を触れないように。なお心臓が弱い場合は目を背けること。
 三、脱皮後しばらくすると、どこからか同族の見目麗しき子守り女がやってくる。
 四、これを妻とし、言うまでもなく、わしをこの家の子として養育するように。
 五、十歳を迎えるまで脱皮前の記憶はない。
 六、末永くお幸せに。
 私は押しつけがましい手紙をくしゃくしゃに丸め、老人を見あげた。いくら押しに弱くとも、こうして押し切られるのは願いさげだった。しかし手足の末端は中身が抜けたらしくぺちゃりとしぼみ、皮ごと蜜柑を握り潰したようなくぐもった音を立てながら、歯磨きチューブを使い切る時の要領でもって、老人は腹部に向かってみるみるしぼんでいっていた。
「もう手遅れだ。こうなったら非情だろうが赤ん坊にそれらしい手紙を添え、面倒を見られそうな近所の玄関先に置いてくるしかないようだ」
 座椅子や蛙のぬいぐるみなどを押しやり、ばたばたと新聞紙を畳に敷いて袖をまくりあげた。ぺちゃんこに萎んだ老人の頭部からは粘つく液が滴り、腹部で膨れていた塊がもぞもぞと喉元へ移動を始めたかと思った矢先、赤子がぬるりと口を裂いて現れた。
「オギャア、オギャアぁぁぅぁぉぉぉ、オギャアアア」
 生命力に溢れた赤ん坊を新聞紙に降ろし、私は紙と筆を取りにいこうと廊下に出た。すると玄関の引き戸が開き、妻と息子が買い物から戻ってきた。
「いや、これはその、なんて言えばいいか、またなんだ……」
 現状をひと目見るなり事情を察した妻は、なにも言わず玄関を飛び出していった。おそらく、この家の妻である自尊心と自分自身の立場を死守するためなのだろう。
 いっぽう三歳の息子は、脱皮し無防備となった赤ん坊を抱えあげて繁々と眺めていた。
 まさか無茶はしないだろう……と思う。しかし近所の手前もあって私の妻となっている見目麗しいあの女は、かなり殺気立っていた。息子も十歳になるまで以前の記憶がないとはいえ、脱皮する生き物としての生存本能に長けているのではなかろうか。
 老人も、我が家を下調べするべきであったのだ。
 息子がこちらを見て笑っている。
 こんな屈託のない笑顔は、父親にされて以来初めてだった。