ロウソクの火

          ロウソクの火
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 仏壇にあるロウソクの火が、うっかり消し忘れられている。
 危険ですよ、すこぶる危険ですよ。
 もし万が一、いや千が一、いいや、これはもう百が一といえる程に、火事の危険性がある。なんだったら、十が一といっても結構。
 齢七十にして、私は仏壇へ馳せた。
 そして、さっと手をひと振り。火は無事に消え、名残惜しげに芯が煙を立ち昇らせ、ほっとひと安心……なんてわけにはいかない。
 なんせ私は死んでいる。
 手をひと振りだって? そんなものは生前の夢か幻。私はいつだって現実派である。ロウソクの火を目の前にして、現実的対処をしなければなるまい。
 死者の現世における現実的対処法、その一。
“呪い”
 呪いは死者の十八番。そして特権。うまくすれば、ロウソクはその生命の火を我が呪いにより縮めるであろう。
 私はロウソクの火を睨みつけた。
 重く澱んだ時が流れる。目がチカチカし、睨みすぎて頭痛がし始める。呪いは案外大変だ。怨みの情を念に昇華しなくてはならない。しかも相手はロウソク。
 この生白で、芯が細い、ずん胴野郎。
 自分じゃ火もつけれない甘ったれめ。悔しかったら火くらい消して見せろ。
 好き勝手に燃えやがって、こんちくしょう。熱いじゃないか、眩しいじゃないか。お前のせいで私の人生は、なんだか……すごく、なんというか……ええ……あれだよ、あれ。
 念じる恨みが早々に底をつき、この手段は通用しないのかと思い始めた時、火がポッポッと縮んでいった。
 よしよしよし、よき呪いに栄光あれ。
 だが小さくなったロウソクの火は、蓄えた力を発散するように、新たな勢いで燃えあがった。逆効果である。どうやら私は、ロウソクを焚きつけたようだ。
 死者の現世における現実的対処法、その二。
“生温かい息”
 その生温かさとは裏腹に、相手を身震いさせ、背筋を凍らす冷却効果。
 私は息を吸い、さらに吸って、吐いた。
 ロウソクの火は、そよとも揺れない。
 やはり駄目か。吹き消せないと薄々わかっていたが、いざそうなると気落ちする。
 原因は、ぽっかり開いて空洞となっている目と口にある。そもそも肺活量に自信がないうえに、生温かい息が三つの穴から拡散してしまうのだ。
 己に腹が立つ。なにゆえ私は、単純明快な幽霊の類ではないのだろうか、と。
 仏壇の遺影。生前の私。遺影のガラス面に反射する現在の姿に溜め息が出る。
 赤茶けて煤けた泥土の色。左腕を軽く曲げておろし、それとは反対に、右腕は曲げて頭のうえに添えている。そしてずん胴のうえにある間抜け面には、閉じることを許されない虚ろな目と口……。
 なにゆえに、なにゆえに私は、埴輪なのか。
 普通の幽霊になれないのなら、せめて日本人形とか、死亡時刻に音を鳴らす壁掛け時計など、そういった味のある、らしくあれるものに憑きたかった。それが人型の埴輪とは情けない。現世に引っかかりが存在し成仏出来ないのなら、それはそれで結構。甘んじて、さまよいもしよう。だが我が魂が引っかかる先は、どこで購入したか憶えていない遺品の埴輪でなくてもよかろうに。遺影に反射するすっ呆けた顔じゃ、泣こうにも笑えてしまう。
 死者の現世における現実的対処法、その三。
“枕頭に立つ”
 気を取り直そうと思い立ったが、己の浅はかさに辟易した。
 私はずっと立っていたではないか……ロウソクの傍らに。これが功を奏すなら、火はとっくに消えていて然るべきはず。
 しかしロウソクの火は怖れる気配もなく、ジリジリと素焼きの肌を焦がしていく。
 夜の十一時。私の保険金で借金を返し、懐に余裕まで生まれた息子は飲み歩いていて、まだまだ帰宅は先だろう。金策に奔走していた頃は酒を断っていたが、肩の荷をおろしたせいか近頃はどこまでも浮かれている。
 死者の現世における現実的対処法は、いまのところ思い浮かばない。息子は頼りにならず。仮にいま帰宅しても、仏壇に足を向ける殊勝さは皆無。こうなれば反りの合わなかった息子の嫁に頼るしかない。だが、どうしたらいい。夢枕に立ち、平身低頭し、知らせにあがるか。それは、ご免こうむる。私の死後、毎日思い詰めたような顔をして線香をあげてはくれるが、だからとて、生前に嫁から受けた冷遇は簡単に忘れられやしない。おまけに私は、埴輪である。
 私は再び、己の浅はかさに辟易した。
 確かに、私は埴輪である。だがロウソクの火を消そうと壁にも頼らず、仏壇へ馳せたであろうに。つまり埴輪の身でありながら、自由に動けるのだ。生前の足腰よりも強靭に。
 襖の陰から、そっと嫁の寝姿をのぞく。
 嫁は寝苦しそうに布団をはねのけているが、こちらに気づく様子はない。
 私は音を立てず忍び寄る。嫁の寝息は乱れ、真紅の艶あるパジャマの胸元がはだけている。こぼれ落ちそうに顔をのぞかせた双つの隆起は脈打ち、かげろうのごとく汗と石鹸の香気を妖しげに立ち昇らせ、くるおしく踊っている。
 そこに、もはや嫁の姿はなかった。
 そこにはただ、女がいた。
 私は義父の仮面を捨て一匹の男になり、雄々しく飛び乗……。
 なんて馬鹿げたことは露ほども考えず、あくまでも埴輪として嫁に飛び乗った。さて、これからどうする。しばし熟考するが、火の消し忘れを知らせる術はない。だが水が上から下へ流れるように、この事態も嫁の言葉で流れ始めた。
「お義父さん、ごめんなさい」
 思わず、いやこちらこそ胸の谷間から失礼、と口を開こうとするが、最初から口は開いたままだと思い至る。おまけに、私はしゃべれない。
「もう許して、お願いですから」
 はからずも居心地のよさを感じている私以上に、嫁には後ろめたさがあるようだった。私は思わぬ展開に、より目を見開いて見守る。
「あたしがいけなかったんです。あたしがお義父さんを殺してしまったんです」
 なにを馬鹿なことを、あれは事故のはず。
「あたしが……あたしが……」
 生前、日課であった散歩。高台にある我が家を出て、杖をたよりに駅への近道である階段をくだり、駅前の喫茶店で一杯のコーヒーを愉しむ。それがあの日は階段をくだり始めた途端、不意に転げ落ち……。
「……どうしても、お金が……許して……」
 苦悶しながら、嫁はしゃべり続けた。
 そして私は知った。己の死が意図的に呼び寄せられたという事実を。
 私は埴輪でありながら、惑うことなく、確かな足取りで家を出た。近所の犬が吠えくるい、繋がれた鎖が怯えた音を立てる。ロウソクの火は、まるで初めからついていなかったかのように消え、底のない闇をもたらしていた。これで火事の心配はない。だが、それももうどうでもいいことである。
 己が転落していく様子を想い描きながら、階段の最上段に横たわる。いつかは消えるのだろうが、我が両腕は、嫁の胸のうえに遺してきた。両腕を自らの意思で切り離す際、あまり痛みは感じなかった。
 嫁の言葉が、耳についてこだまする。
「杖が折れるよう細工する主人を見ておきながら、なにもいわず……」
 息子が千鳥足で階段をのぼってくる。今夜もまた、充分すぎるほどに酒を飲んでいる。そして階段をのぼり切ったと思った矢先、そこに……。
 死者の現世における現実的対処法、その四。
“復讐”
 私は、とても転がりやすい埴輪である。