雨と風と見交わす瞳
出張が無事に片づき予定どおり帰宅できるのが良いのか悪いのか、台風が夜半にかけてこの地域を通過するとラジオのニュースが警戒を促していた。
タクシーから降車すると、猛烈な雨と風に押し戻されそうになる。足が重い。しかしそれは風のせいだけでなく、出張でうやむやになっていた夫婦喧嘩が再燃するのではないかとの不安もあるからだった。
「ただいま。いや~、外は大荒れだよ」
私は玄関へ荷物を置き、一週間を隔てた妻の様子に感覚を研ぎ澄ましつつ雨滴を払った。
「あら、はやかったのね。ごめんなさい、いまちょっと手が離せなくて」
台所から返ってきた声は、意外にも弾んでいた。これは良い兆候だ。私は濡れた靴下を脱ぎ、ズボンの裾をめくり台所に顔をだした。
「おかえりなさい。いまね、あまりもので自家製の納豆づくりに挑戦しているのよ」
妻は煮た大豆を束ねた藁にうつし、端を縛っていた。ずいぶん本格的だ。そういえばつい先日も、自家製豆腐をつくっていたっけ。
「出張中、なにか変わったことは?」
「あら、なにもなかったわ。あたしずっと家にいて、どこにも行かなかったもの。ええ本当。そんなことより、あなた夕飯は?」
「いや、駅で済ませてきたから。……その、なんだ、なんか手伝ってやろうか?」
「いいのよ、疲れているでしょうから。それより着替えたら? 床まで濡れてるわよ」
妻の視線が一瞬するどくなった。喧嘩再燃の火種はどこに転がっているか分からない。そもそも私の浮気が原因なのだから、触らぬ神になんとやら、だ。
詰まらぬ火種を踏みつけないうちに濡れた服を脱いでしまおうと風呂場へむかった途端、強風のうなりのなかで木の裂ける音がしたと思ったら、窓ガラスの割れる音までもが寝室からとどろいてきた。
いそぎ窓を塞ごうと出張前夜の喧嘩で犠牲となった襖を用意していると、周到な妻が金づちと釘を手渡してくれた。
「これ、使えるかしら」
「ずいぶんでかい気もするが、大丈夫だろ」
釘は十五センチほどの大きさだった。昔ながらのいい方なら、五寸釘というやつだ。釘打ちに不慣れな私はコツコツと小刻みに打ち続けたが、まるではかどらずにいた。
「あなた、ちょっと貸してみてよ」
妻は金づちを大胆に振るいガツンガツンと釘を打ちすえ、あっという間に窓を塞いだ。
「へえ、手慣れたもんだな」
「あら、あなたが不器用なだけじゃない」
男としての面目は丸潰れだが、まあ、良しとしよう。日頃から察しが悪すぎると自覚している私でも気づけた棘のある言葉も、滞りなく聞き流す。数度目の浮気。悪いのは私。
「ずぶ濡れになっちゃったわね。風邪をひかないうちに、はやく洋服を脱がなくちゃ」
妻を先に風呂場へ行かせ九時のニュースを見ようとテレビをつけると、どこかの漁港から風雨にさらされたリポーターが中継をしていた。外では風のうなりがさらに増してきている。今夜は騒がしく眠れそうにないな。そんなことを思った矢先、一瞬にして家中が真っ暗闇と化した。
「今度はなによ、停電?」
「そうらしい。懐中電灯はどこだった?」
「やだ、どこだったかしらね。……あら、そうだわ、ちょっと待ってて」
風呂場をでて、壁伝いに歩く音がする。
「おい、どうした。なにしてる?」
「ちょうど良いものがあるのよ」
妻は廊下の隅あたりで、なにやらゴソゴソとやっていた。
「ほら、これよ」
数瞬後、ほのかでやわらかな灯りがともった。ついで見覚えのない鞄に入っていた衣服を素肌にまとい、妻は半分ほどの短さになっているロウソクをテーブルに置いた。
「これ、和ロウソクだよな。高いんだろ?」
「そうなの、でも値段は秘密よ。ほら、よくいうじゃない、知らぬが仏って」
妻は衣服の前を、ゆっくりと合わせた。
「それ着物だったのか……悪くないな」
濡れた髪をかきあげながら、妻が薄く微笑んだ。胸元をすべる雨滴の名残がその辿り行く先をも潤すかのように惑わし、初めて嗅ぐ色香に深く抉られ身体の芯が疼きだす。静かな瞳に宿る和ロウソクの炎はゆらりゆらりと魅入る者を焦がし、雪のように穢れを知らぬ純白の着物が凄艶さを溢れさせている。
今夜は、ながい夜になりそうだ。
浮気の虫が葬られたこの停電という機に乗じ、夫婦の溝は無事埋め尽くせることだろう。
私の血潮は熱くたぎり、妻の姿態に遅まきながら昂ぶった心臓が、痛みすらともない激しく脈を打っていた。