“のろい”の自転車
いつになく腰を据えすぎたバーから出ると、路上に人の足音はおろか、夜行性の動物が徘徊する気配すらなく、駅周辺には静寂だけがどんより漂っていた。
深夜二時。
路線バスはとうに運行をやめ、客待ちのタクシーも見当たらず、夜の闇に沈んだ建物の間をすり抜ける微風が夜気をはらみ、火照った頬を撫でていく。
わしは大仰に溜め息を吐き、バス停のベンチに腰かけた。だが、なぜだか妙に落ち着けない。わしはロータリーをうかがい、じっと物陰に眼をこらし、慌てて顔を背け、少しばかり大きな声をあげた。
「家まで歩いたら一時間以上かかるのぅ。面倒じゃのぅ。疲れるのぅぅ。せっかくの酔いが醒めてしまうのぅぅぅ……」
静寂を破るはずの独り言が、急激にしぼんでいく風船のように、静寂に侵され霧消する。
わしはなにをしたかった? 偶然居合わせた人が話しかけてくるのを期待した……いいや違う。朝までベンチで眠り過ごすための古女房への言い訳……いいや、それも違う。
ロータリーの植込み、自販機と壁の隙間、駅周辺の地図が描かれた案内板のうしろ。それらの物陰に潜むなにかがこちらを注視し狙いを定めているのではないかという、じわじわ染み入ってくる怖れを、拭い去りたかっただけだ。だが、詰まらぬ独り言は、静寂と怖れをより強調したにすぎなかった。居心地の悪い、このベンチにおいて。
袋の鼠……蛇に睨まれた蛙……鷹の前の雀……。勝手な言葉どもが、脳裏にて蠢く。
わしは弾かれたように腰をあげ、物陰を避けつつ周囲に眼を走らせた。酔いが醒め、怖れが増し、夜気が背中を伝う。さらに眼をこらすと、点滅する信号機の濁った光にぼんやり照らし出された自転車を見つけた。
その自転車は鮮魚店のシャッターへと無造作に寄りかけられていた。タクシーを呼んだとて待つ時間が耐え難い。それに一刻もはやくこの場を離れたい。ならば徒歩より自転車。
わしは猟犬に追われる獲物のように駆けた。
「あとできっと返しにくる。借りるだけなんじゃ、勘弁してくれ」
ハンドルに手をかけ、必死になって詫び言を呟いた。自転車は運よく施錠されていなかったが、タイヤの空気はかなり抜け、錆びたチェーンが耳障りな音を響かせた。
わしはペダルを漕ぎに漕ぐ間も、逃れようとする駅周辺から眼を離せずにいた。隙を見せたら、物陰からなにかが現れるのではないか。そいつがわしに襲いかかり……。
不吉な想像のせいか物陰から忍び笑いがもれた気がしてならず、必死にペダルを漕ぐ。膝が悲鳴をあげようが、心臓が破裂しそうに暴れようが、漕いで、漕いで、漕いだ。
荒い息を吐くたび、家族の顔が浮かぶ。古女房、息子、嫁、孫。そういえば先日、学校で仕入れた噂話を孫から聞かされていた。
「おじいちゃん、知ってる? 深夜になると駅前にね、のろいの自転車が現れるんだってさ。おじいちゃん好きだよね、こういう話」
わしはおもむろにブレーキをかけた。
まさか……この自転車が。
だが、ブレーキは壊れているのか効かなかった。何度かけても反応がない。足も地面にはとどかず、停めることが出来ない。
居心地の悪いベンチ、物陰への怖れ、それらはこの自転車への誘いだったのか。それとも失念していた孫の噂話に無意識に煽られ、怪奇小説や映画を嗜好するわしが生み出し繋ぎ合わせてしまった幻想なのだろうか。
背後からは鮮魚店の生臭さ以外、迫りくるものはない。いまのところは無事だ。だが、もしこれが噂の自転車だとしたら……。
「ええ、くそっ」
わしは腹をくくった。こうなれば孫に自慢するまでだ。どんなもんだい、これが噂に名高い自転車だ。すごいだろう、わしという男は。ってな具合に。
幸いにも我が家までは上り坂や下り坂はなく平坦な道が続いており、自転車での走行はとても楽な道程といえた。
……はずなのだが、このくたびれた自転車は思いのほか遅かった。錆びたチェーンでペダルは重く、空気の抜けたタイヤではスピードも出ない。いっそ歩いたほうが速そうなほど、この自転車は遅々として進まなかった。
振りむけば、いまだ近くに駅が見える。時間ばかりが、虚しく進んでいく。
もはや怖れなど感じもせず、わしは、きれぎれの息で怨み言を呟いた。
「……それ……にしても……のろいのぅぅぅ自転車……あぁ、んぐ……腰にくるわぃ……」
我が家に着くのはいつになるやら、呪いたいほどのろい自転車のせいで、まったくもって見当もつかない。