風鈴の音

           風鈴の音
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 ちりん、ちりん、ちりん。
 軒下に吊るされた風鈴が、そよ風に揺れている。聴く者に淡い涼感を抱かせようと、宵に透きとおる音色を奏でながら。
 ちりん、ちりん。
 俺が盆に帰省する度、この風鈴が迎えてくれる。いつもと同じ、毎年変わらぬ光景。まるで、そこだけが時間の流れに取り残されているようだった。
 ちりん。
 風鈴の音に誘われ、おぼろな記憶が緩やかに色彩を増し、明瞭な線を成してゆく。あれは、俺がいくつの頃だったろうか。
 夏の盛り。
 ぶらり、ぶらりと、縁側から足を投げ出している幼い俺。日焼けした肌、汗が滲んだシャツ、泥で汚れた半ズボン。
 どっしりと床を軋ませる足音に、俺はかぶりついていたスイカから顔を上げる。祖父が帰ってきたのだ。祖母が切ってくれた大きめのスイカを自慢気に見せている俺に、祖父は丸められた新聞紙を突き出す。
「ほら」
 べとつく手でひろげた新聞紙から、見事な尾を持つ金魚が描かれた風鈴が現れる。途端に、俺の顔は笑みではち切れそうになる。
「わあ、ちんぎょさん、ちんぎょさん」
 祖父は拙い言葉使いを笑うでもなく、釘の頭が浮き出ている軒下のある箇所へと、台所から持ち出してきた踏み台にのり、さっと手際よく吊るす。
「ちんぎょさん、くるくるくるくるおよいでるね」
 俺の横へ腰を下ろした祖父は、黙って風鈴を見つめている。風鈴はくるくる回っていたかと思うと、軒下の馴染み具合を確かめるように静止してから一瞬の間をおき、不意に風を受け始める。
「ねえ、ちんぎょさんがうたってるよ」
 祖父は目尻に皺をよせると、俺の頭にそっと無骨な手をかけ、
「ああ、きれいな声だな」
 と言う。
 俺はいつしか祖父の膝の上に座を占め、二人して金魚の歌声に耳を傾けていた。
 ちりん、ちりん、ちりん。
 幼い頃の記憶が鮮明によみがえった。
 ちりん、ちりん。
 この家、この縁側、この風鈴。夏になると、俺はこの風鈴の音色をいつも聴いていた。
 ちりん。
 俺は俺の記憶のなかで、年を重ねてゆく。
 小学生の頃、遅々として進まぬ宿題の合間に風鈴の音を聴いていた。
 中学生の頃、そこにあるものとして馴染みすぎてしまい気にも留めなくなった。
 高校生の頃、風鈴の音に傾ける耳など持ち合わせもせず、昼も夜もなく、仲間とバイクを乗り回し、家を空けている方が多くなった。
 祖父と顔を合わすことも少なくなり、交わす言葉さえない。その頃の俺の記憶には、祖父の姿はどこにもなかった。
 それも当然だ。俺は祖父を避けていたのだから。厳格で堅物で無口だった祖父。時おり発する言葉は重く、その重さに耐えられず、俺は逃げるように近づかなくなった。
 きっと、俺は祖父に甘えていたんだろう。
 毎年この縁側で風鈴を眼にする度に、いまさらどうすることも出来ない祖父への想いが、ゆき場もないままに湧き上がってくる。
 ちりん、ちりん、ちりん。
「今年も美しい声で、うたっておくれ」
 祖父は、もう危ないから代わりに取り付けてやると言う親父を無視して、自ら踏み台にのって毎年風鈴を吊るしていたようだ。言い出したら聞かない人だから、と親父とおふくろが苦笑交じりに話しているのを、いつだったか、俺は何気なく耳にしたことがある。
 きっと、軒下に風鈴を吊るす祖父の傍らには、スイカにかぶりついていた幼い頃の俺が、いつも一緒にいたのだろう。
 ちりん、ちりん。
 祖父がくれた風鈴。表面に細かな傷がはしってはいるが、あの頃のまま、いまでも美しい音色を奏でている。数年前からは親父が祖父の意思を汲んで軒下に吊るしている。盆に帰省する俺を、この家に迎え入れるために。
 ちりん。
 俺は敷居をまたぎ、仏壇のある部屋に入った。仏壇のところには、祖父の顔が見える。毎年拝む祖父の顔。寂しげな憂いが、より深みを増しているように思えてならない。
「わしより先に逝きおって……ばかもんが」
 俺の遺影に手を合わせている祖父からこぼれた言葉が、今年もまた、重く胸に響いてくる。
 相変わらず、俺には祖父と交わす言葉がない。
 玄関先で焚かれた迎え火は、とうに燃え尽きている。