モスキート
不運な蚊が、たらふく血を吸った。
ぐっすりと寝込んでいた男は、右手の甲に走った不快なかゆみに目を覚ました。
「ん……?」
耳障りな羽音をたて、満足の態で去り行こうとする蚊。
はち切れんばかりの腹を抱えよたよたと飛ぶ姿を目の端にとらえ、青ざめた男は逆上して飛び起きると、執拗に蚊を追いかけ始めた。
「てめえ、この俺様から血を吸うなんざあ、いい度胸してるじゃねえか」
日頃は紳士然とし、初対面の人物とも社交的に振る舞い、粗野な言動で無駄な警戒心を抱かせないよう心がけているこの男も、格下の相手と見るや、なんの躊躇もなく仮面を脱ぎ捨てた。
「待ちやがれ、こんちくしょう」
握り潰そうと繰り出した左手が空を切り、右手も同様の結果に終わる。
男は部屋中を駆けずりまわり、テーブルの上に飛び乗ったり、ソファーの陰で息を殺して待ち伏せたり、むやみやたらと椅子を振りまわしたりしたが、蚊を仕留めるには至らず、部屋の中だけが、しっちゃかめっちゃかな状態に至った。
「冗談じゃねえ。冗談じゃねえぞ、この野郎」
男はギラリと光る歯並びの悪い歯を剥き出しながら、荒い呼吸を弾ませた。
蚊はその様子に怯えたように、高い天井の彼方へそそくさと逃げて行く。
「俺様から血を吸うなんて……。俺様が苦労に苦労を重ね、時に優しく甘やかし、時に冷たくあしらい、なだめすかしたり、惜しげもなくへりくだったりして、ようやく手に入れた乙女の血を、いとも易々と俺様から吸いやがって」
男はわなわなと全身を震わせ、ついでにマントの端までも波打たせた。
「かゆみ止め薬を塗って俺様が泣き寝入りするとでも思ったか、この野郎。返してもらうぞ。地の果てまでも追いかけて俺様から奪った血を、きっちり返させてもらうからな」
男はマントをひるがえして飛び上がるとコウモリへとその身を変え、天井の彼方へ蚊を追って行った。
「ふははははは、逃がすものか。許さん、決して許さんぞ」
ドラキュラ伯爵の狭いがゆえの小さな心は、コウモリに変身したくらいの方が、ぴったりと収まるようだった。