靴底
「なあ、おまえの靴ってさ、左右の高さが違うよな。なんでだ?」
ボロアパートの俺の部屋で野球中継と缶ビールを楽しみながらも、目と鼻の先にある玄関に揃えられた靴を気にしていた友人が、おもむろに呟いた。
「ああ、いつも右の靴だけ底の減りが早いんだよ」
友人は、しげしげと俺の靴と自分の靴を見比べている。友人の靴は左右の高さが一緒だが、俺の方は右の靴が低くなっていた。
「どうも歩き方に癖があるみたいでさ、ひょっとしたら、骨格のバランスでも悪いのかもしれないな」
俺の話を聞いていたのかいなかったのか、友人は何かに思い至った様子で口に運んでいた缶ビールをはたと止めると、探るような視線を俺にむけてきた。
「おまえさあ、たしか霊感が強いとか言ってたよな」
「ああ」
「いろいろと、見ちゃったりもするんだろ」
「まあな」
まじまじと俺を見つめ、友人は思い至った何かに確信を深めているようだった。「夏はビールに限るなあ」なんて快活に言い放ってグビグビと喉をならしていたのが嘘のように、真面目くさった顔つきにまでなっている。
「非常に、言いにくいんだけどな……」
缶ビールを静かに置き、ついで居住まいを正すと、友人はもったいぶって咳払いをした。
「なんだよ、正座までして」
「いや、なんだ。その……」
次第に小さくなる友人の声にあわせ、俺は仕方なくテレビの音声だけを消した。
「……いてる……んじゃないのかなと」
しかし、友人のかぼそい声は扇風機の振動音にすら勝てず、俺は聞き返しながら、わざわざコンセントからコードを手荒く引き抜いた。
「だからな……、そのう、霊がだな、もしかしたら、もしかしたらだぞ、おまえの右肩にとり憑いていたりするんじゃないのかなと……」
重くよどんだ熱気が部屋を満たしはじめ、妙な息苦しさをおぼえさせるようになった。これは停止させた扇風機のせいなのか、それとも、いたずらに俺の右後方に視線を投げる友人のせいなのだろうか。
「その重みがおまえの体のバランスを崩して右に傾けさせた結果、靴底にまで影響を及ぼしている……と、考えられなくもないよな」
友人の言葉に息をのむと、ねっとりとした汗が首筋をすべり落ちていった。そして、体の内奥から込み上げるものが全身を震わせ、友人を正視していられなくなった俺は、床に手をつき背を丸めた。
もう駄目だ、息が出来ない。苦しすぎて、我慢も出来ない。
「おいっ、どうした、大丈夫か。なんだ、なんなんだよ」
背を丸めた姿勢から、俺は急激に天井を見上げるように体を反り返らせると、堪えきれずに思いっきり吹き出してしまった。
「あっ、はははははっ」
それはもう、部屋にこもった熱気を払いのけるような、大きすぎる笑い声だった。
「すまん、すまん」
ひとしきり笑ったあと、俺は呆気にとられてポカンと口を開けている友人にむかい、涙ながらに何度か頭を下げた。
「いや~、さすがにそれはないって。霊がとり憑いていたら、自分でも分かるしな。ましてや、とり憑いた霊が結果的に靴底に影響を及ぼすってのも絶対にないよ」
「そうか、そんなものか。まあ、俺には見えもしないし、感じもしないからなあ」
友人は缶ビールに手を伸ばし、あらためてグビグビと喉をならしたが、なかなか自説を捨てきれずにいるようだった。
「いい線いってる考察だと思ったんだけどなあ。あくまでも、おまえが気づいていないだけって可能性はないんだよな」
「ないない」
「そうか~、ないのか。でもさあ、ほんのちょっとくらい、あってもいいんじゃないか」
「いやいや、そもそもの話だな、とり憑いた霊が結果的に靴底に影響を及ぼすって言うのなら、おまえの靴の高さが左右一緒なわけがないんだって」
「えっ」
「……あっ」
まずい、つい口をすべらせてしまった。
取り返しのつかない事態を取り返そうと、俺はつとめて何事もなかったかのように装いながら扇風機のコードを差し込んでスイッチを入れ、テレビの音声も元に戻してみた。
だが、友人の表情は凍りつき、みるみる青ざめていった。
それはちょうど、友人の肩にもたれている誰かさんの顔色と同じだった。