消臭スプレー

          消臭スプレー
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 玄関を開けると、妻が珍しく出迎えていた。
「なんだ、どうかしたのか」
「いいえ、お帰りなさい」
 靴を脱いだ途端、妻は手にしたスプレーを軽くふり、靴のなかへと噴射した。
「なにやってんだ」
「消臭よ、消臭」
 たしかに履き古したヨレヨレの靴に、湿気の多い梅雨の時季は厳しいものがある。
「だいぶ蒸し暑かったからな、やっぱり臭うか?」
「そんなことを気にしないために、消臭しておくのよ。こういったことはね、早めに対処するのが肝心なの」
 どうしたのだろう、妻がやけに気を利かせてくる。なにか、いいことでもあったのだろうか。
 おや? ネクタイをほどいていた手が、ふと止まる。妻が、化粧をしていたからだ。パートが休みの日には、化粧なんてしたことなかったはずだが。
「どこかへ出かけていたのか、なにも聞いてなかったけど」
「お隣の奥さんと、ちょっと息抜きにね。お茶とか、食事なんかで」
「おいおい、お隣って、あのお隣さんか」
「ええ、そうよ」
「お茶に行く間柄でもなかっただろ」
「ちょっとね、意気投合したものだから」
 お隣の奥さんは、最近、近所中の評判になっている。と言っても、決してよい方ではなく、かなり悪い方においてだ。
「大丈夫なんだろうな。あの奥さん、あまりいい話は聞かないようだけど」
「若い男と一緒にいたとか、お金の使い方が派手になったとか、生きいきとした表情で笑っていたとか、って話でしょう。そんなの詰まらない噂よ」
 本当に、そうだろうか。一昨日、ゴミ出しで挨拶を交わした時の雰囲気は、妙に弾んでいたように見えたが。
「馬鹿げた噂よねえ。生活に張りのない人達が、ケチをつけたいだけなのよ。絶対に、そうだわ。ああ、いやねえ」
「でも、旦那が失踪してから、まだ一ヶ月も経っていないだろう。そのわりに、心配でたまらないって様子ではないよなあ」
「なあに、あなたまで……」
 妻の眼差しが、一瞬するどくなった。これまで、特に親しくしてきた訳ではなかったお隣の奥さんにたいして、肩をもつとは……。急に、意気投合しすぎじゃなかろうか。
 しかし、旦那が失踪して間もないというのに息抜きだなんて、隣の奥さんものん気なもんだ。警察に届けを出しても進展はないようだし、もちろん旦那からの連絡もない。そんな状況であるにもかかわらず、なのだから。
「そんなことより、はやく靴下も脱いでちょうだいよ」
 言われるままに靴下を脱ぐと、妻は靴下にまで消臭スプレーを噴射した。
「なあおい、洗濯すれば済むじゃないか」
「洗濯だけじゃ、駄目なの。この消臭スプレーのいいところは、臭いの元のもとの要素まで分解して、きれいさっぱり消し去ってくれるところなのよ。そうして新たに生まれ変わるの、この靴下は……」
 思わず、靴下を鼻先に近づける。
「あのねえ、一回使ったぐらいじゃ完全に臭いを消し去れないのよ。まったく、いちいち、あきれるわね」
「いい香りもしないな」
「これはね、香りをつけて誤魔化したりする安物の消臭スプレーとは違うの。お隣の奥さんから詳しく聞いた話じゃ、二週間ぐらい使わなければ効果は出ないらしいのよ」
 どんな話をしてきたのかと思えば、消臭スプレーのことを話題にしていたなんて、本当にあきれてしまう。てっきり、失踪中の旦那に関する話をしてきたのだと思っていたのに……。
「この消臭スプレー、五万円もするのよ」
「なっ、なに」
「でもね、これはお隣の奥さんから譲り受けたものなの。半分しか残っていないけど、もう必要がないから、ぜひ試してみてって」
「そうか。でも、まさか使い切ったら新しいのを買うつもりじゃないだろうな。やめてくれよ、そんな高いもの」
「あらっ、安いものよ。臭いの元のもとの要素まで、きれいに消し去ってくれるんだから」
 そう言うと妻は、手にした消臭スプレーを強くふり、私の素足に向けて噴射した。
「おいっ、なにするんだ」
「いやねえ、消臭よ。消臭」
 妻はさらに消臭スプレーをふりながら、私の右手の指先にまで噴射してきた。 
「なんで、こんなとこまで」
「あら、長年吸い続けたタバコのヤニ臭さが染みついてるじゃないの」
「やめろよ、臭いの元のもとの要素みたいに扱いやがって」
「なあに、いつもいつも大人げないわね。冗談に決まってるじゃない」
 それでも妻は、消臭スプレーをふり続け、隙あらば噴射しようと構えていた。
「いいかげんにしろよ、しつこいぞ」
「冗談なのよ、分かるでしょ」
「……やめろって」
「冗談なんだから、分かりなさいよ」
 妻は眼を輝かせ、やけに楽しそうにしている。
 その押さえようにも押さえきれずに心弾んでしまっている雰囲気は、どこか、お隣の奥さんに似ていなくもなかった……。