ハロウィン
歩くのにも疲れ、ふらりふらりと目についた喫茶店へ。
「いらっしゃいませ。あ、はい。ようこそおいでに。さっそく席へご案内いたしますわ」
妙な言葉遣いに首を傾げることも、店員の着用する所どころ破れたお姫様っぽいドレスに疑問を差し挟む余裕などもなく、私は店員にうながされるがまま、一日の疲労を吸収してくれそうな革張りの席に身を沈め、だらしなく漏れそうになる安息の吐息を無理に押さえ込むと、かろうじて残る気力を減らさないよう言葉数を減らして、ぼそりとひと言、コーヒーと注文した。
「先ほど五時を過ぎましたので、アルコールの提供も出来るようになりましたが、コーヒーのほうでよろしいでしょうか?」
目の下のやけに濃い隈のわりに、そこはかとない圧力を漂わせた売り上げに貢献しようとする店員の義務的だが若さ溢れる声に呑まれかけつつも、私はネクタイとシャツの襟元を緩めていた手を、注文はコーヒーでいいんだと、ささやかに力なく振った。
「当店では軽食のほか、本日限りの特別メニューもご用意しておりますが、ご注文はコーヒーのみでよろしかったでしょうか?」
青ざめた顔色のくせに何気なく、注文時にあれこれ勧めろという店側の指示を健気に守り通そうとするらしい店員に、ちらりと同情を覚えかけもしたが、私はすぐにでもコーヒーが飲みたかった。砂糖多めの芳しく甘いコーヒーを。だが、くどい確認を遮ってまで早くしてくれなどと、他の客たちの騒がしい声に埋もれないだけの声を張りあげる気力を奮い立たせることはせず、私は顔色にそぐわない微笑みで返事を待つ店員の視線をとらえ、ゆっくりと頷くだけにとどめた。
「か、かしこまりました」
しかし実際には、さり気なく口の端から血を滴らす店員の若い娘からしてみれば、のっそり顔をあげた怨みがましい目つきの疲れた客によるコーヒーを催促する頷き、としか映らなかったのかも知れない。店員は一歩あとずさり、そそくさと頭をさげ、怯えたように席から離れていった。申しわけ程度に腰に刺さったナイフの柄を、ふりふりと小刻みに揺らしながら。
ドレスに血の染みをひろげて平然とする店員を誰も不自然と思わないのか、と辺りを見回すうち、むしろ不自然なのは自分のほうだと気づかされた。他の店員は斧で頭を割られていたり、ドラキュラの恰好をしていたりしたのだ。おまけにカウンターの奥では、着ぐるみの大仏様がコーヒーを淹れている。さらに辺りを注視すれば、客たちも皆がみな、映画のヒーローや悪役の恰好をし、ミイラ男や狼男などになりきりながら、美味そうにコーヒーを啜り、ショートケーキをつついていた。
甘えたゾンビが口を開け、小豆あらいにチョコレートパフェの一口をおねだりする仲睦まじき姿をぼんやり眺めながら、私はカランコロンという入口の扉に付属された鐘の音を聴きつけ、ただ反射的にそちらへと目を向けた。
喫茶店の入口では、私同様、仕事帰りにふらりと立ち寄ったらしきスーツ姿の中年男性が、でっかい西洋かぼちゃから頭と手脚を突き出して通路を塞ぐ店員と立ち話をしていた。ぎこちない西洋かぼちゃがしきりに頭をぴょこぴょこさげながら指し示す貼紙を見ると、そこにはこんな文句が書かれていた。
“本日ハロウィンにつき、誠に勝手ではございますが、仮装をしたお客様のみの入店とさせて頂いております。大仏店長”
西洋かぼちゃなりの腰を屈めた低頭さに打たれたのか、仕事帰りらしき中年男性は多少の苦笑を交えながらも、なぜか励ますように西洋かぼちゃの肩らしき凹凸を颯爽と二、三度叩き、またくるよと喫茶店から去っていった。
やってくれたな、あの姫様店員。店長の指示をど忘れしたのか無視したのか知らないが、なんの仮装もしていない私を席に案内するとは。最終的に場違いな客として恥をかかされるのはこっちだというのに。私は抜けきらない疲労感に鞭を入れ、店員の粗相の重みまで担わされながら、あらがう腰をあげかけた。
「大変お待たせ致しました」
血塗れのお姫様店員が愛想よく、コトリとコーヒーを置いた。中途半端にあげた腰をおろし、顔をまじまじと眺めるも、彼女の顔には間違いをおかしたという自覚の影はどこにも見当たらなかった。
「今日は大変そうだね、色々。あの貼紙にもあるように、普段とは対応が違うんだろう?」
仕方なくこちらから、間違いへの自覚を促してみた。
「そおなんですよお。準備とか大変で、メイクは時間かかりますし、衣装とかも自前なんですよ。あっ、でも彼氏が乗り気になって進んで衣装を破いてくれましたし、この柄だけのナイフとかもわざわざ用意してくれちゃって」
決して打ち解けやすい客を装ったわけでもないし、ましてや褒めたわけでもなかった。にもかかわらず血濡れのお姫様店員は、口から血を滴らせ、ぐっさり腰にナイフを突き刺したまま、青ざめた顔色で笑っている。私は別種の凄みを感じながらも、いわんとするところを相手に理解させる難しさを喫茶店でまで突きつけられ、世の不条理を一人で背負わされた気分にまでなってなす術もなく、うな垂れてしまった。
そんな私に一歩踏み出し、瞳をきらきらさせた血濡れのお姫様店員は、彼女なりに賞賛しているらしい一言を漏らすと、新たな客の注文を伺いに向かった。その場に捨て置かれたように、私は呆気に取られていた。呆気に取られただけで、今日のこの時を忘れられればと願いながら。だが、血濡れのお姫様店員の一言は、ぐるぐると際限なくこだましていた。
「お客さん、あの、やっぱり雰囲気がすごく出てますよね。あっ、では、ごゆっくりどうぞ」
血濡れのお姫様店員は、私を“なにもの”として席に案内したのだろう。
いくら甘くしようとも、コーヒーの味など、もうわかるはずもなかった。