長雨をすごす

          長雨をすごす
250_25_syo2.png


「大丈夫ですか、お客様」
 棚に商品を並べていた従業員が足元に注意しながら駆け寄ると、そっと手を差し伸べてくれる。わたしは出来るだけ笑顔に近づけようと苛立ちから強張った表情を和らげ、その手をかりて立ちあがり、老いた客だからとおおげさに心配して見せなくてもたいしたことじゃないんですのよ、と余裕をもって濡れてしまった服をはらいのけた。
「本日は雨のために大変すべりやすくなっております。どうぞお気をつけください」
「ええ、どうもありがとう。お気遣いなく」
 遅ればせないたわりに見当違いの礼をいい、わたしは緑茶の袋を手にすると、心を鎮めるために魔法の言葉を胸のうちで呟いた。
 想像力を働かせなくっちゃ。
 なにかしらの用でほぼ毎日通っているスーパーですべって転ぶなんて失態を演じたわたし。おそらくこのような場合、濡れた床を拭こうとしないスーパー側の怠慢へのそしりをぶつけ気が済むまで従業員を追いこんで頭を下げさせ続けたり、後日クリーニング代の請求書を店長に突きつけたり、そういった行動に移る人がすくなからずいるものでしょう。雨の日だからと配慮を欠いたことで、結果的に常連客の左肘を痛打させたのですから。
 でも深呼吸をしてほんのちょっと想像力を働かせたなら、ものの見方が変わり、この失態は先に生かせる教訓として、胸のうちにおさめることが出来るようになるものです。
 通い慣れたスーパーにて急いでいたとはいえ、雨の日に濡れた通路を小走りで曲がってしまったら、痛い目に遭うのも当たり前。一寸先は闇。注意力という心の懐中電灯で、いつでも足元を照らさなくちゃなりません。慣れているからとスイッチを切ってしまえば、ほらこの通り。この左肘の痛みは、明日の骨折を防ぐための戒めとすべき疼痛なのです。
 わたしは緑茶を買い終えて出来るだけ慎重に、でも急ぎながら、スーパーの隣にたたずむ自宅マンションの自動ドアを抜けた。
「あら管理人さん、こんにちは。あいにくのお天気ですわね」
「ああ奥さん、こんにちは。ええ、まったくあいにくの天気ばかり続きますな」
 エレベーターに乗りこんで奥の隅に身をゆだね、操作パネルの前から動こうとしない管理人の背を、わたしはしげしげと見つめた。
「毎日毎日こんな雨ばかりでは、傘だって乾く暇がありませんねえ」
「まったく奥さんのおっしゃる通りですな。洗濯もんも乾きゃしませんし、たまにはお日様の顔をあおがせてもらわなきゃ、洗濯もんも人さまの心んなかも、湿っていやあな臭いを漂わすようになってしまいますからねえ」
 傘の先から静かに零れ落ちるしずくが、ぽたりぽたり、ぽたりぽたり、ごくごく小さな水の溜まりをこしらえていく。
「水不足だって騒いでいた夏の頃に、せめてこの半分でも降って欲しかったですわねえ」
「ですねえ。皆さんそうおっしゃいますよ」
 管理人は先ほどからこちらに顔を向けようともせずに、開閉ボタンを交互に押してみたり、そうかと思えば同時に押してみたりを、せわしなく何度も繰り返している。
「あのう、おそれいりますが管理人さん、お仕事の邪魔をするつもりはありませんけれどね、そろそろ五階をお願い出来ますかしら」
「すいませんねえ奥さん、どうも先ほどから故障してるみたいでして」
「…………」
 想像力を働かせなくっちゃ。
 このような場合、「故障中です」なり「階段をお使いください」なり、ふつうはエレベーターに乗りこむ前に告げてしかるべきもの。
 でもこの出来事だって、すぐにでも生かすことが出来るのです。冒険家は自らの眼で状況を把握し、信念で決断をくだし、進むべき活路を切り拓いてゆくもの。状況をうみだす相手の人から用意された道を指し示されるのを待ち続けていては、時間がいくらあっても足りやしない。あたしは我が人生の冒険家として、これからやってくる様々な状況を打破していかなくてはならないのです。
「すいませんねえ、奥さん。そうして待っていただいても埒があきませんから、ご迷惑をかけますが階段でお願い出来ませんか」
「ええ、構いませんわ。わたしも最初からそのつもりでしたから」
 わたしは普段の生活でつい敬遠しがちな運動という機会を得て、エレベーターで充分に休息させた脚を活用させ、三階と四階の踊り場でしばらくのあいだ息を整えながらも、早々に自宅のドアを開けた。
「遅かったじゃないか。お茶の葉ひとつ買うのに、いったいいつまでかかってるんだ。もうすこしで干からびるところだったぞ」
 想像力を働かせ……なくても、まだ大丈夫。
 階段をのぼったせいで頭にものぼりやすくなっている血をなだめて抑えつけ、テレビの前で根をはやした夫にこういった。
「こんな天気が続いているでしょう、だからすこしだけ気分を変えて、今日は駅に近いほうのスーパーにいってみたのよ。遅くなってごめんなさい。いますぐ淹れますから」
 すべって転んだり、エレベーターが故障したりといった事実を伝えたところで、遅くなった言い訳としてしか受け取ろうとしない夫のような人種には、嘘のような真実より、真実らしい嘘のほうが呑みくだしやすいもの。
「なるほど、気分転換ね。そういうのもいいな。それじゃ緑茶はやめにして、たまにはコーヒーにするとしよう。うんと甘くしてくれ。おい、頼んだよ。さっさと淹れてくれ」
 やっぱり、想像力を働かせなくっちゃ。
 思わず零した緑茶の葉を震える手でどうにか茶筒に移しかえ、存在すら忘れがちな、ながいこと半分より減らずにいたインスタントコーヒーの容器を取りだす。
 気分転換。それもいいものだわ。いつも同じものに手を伸ばしていては、いつものことが、いつまでも同じになってしまうから。部屋の置物なんかでも、たまに配置をかえるだけで新鮮な気持ちになれるもの。
「それにしてもうるさいもんだ、さっきから」
 夫が天井を見あげる。
「おい、管理人にどうにかしてくれといってきてくれると助かるんだがね。それでも駄目なら直接階上の住人にさ」
 わたしも天井を見あげた。確かに小さな子供たちが走りまわる足音は、わたしが望んでいる静かな土曜日の午後とはかけ離れている。
 想像力を働かせなくっちゃ。
「でもねえ、こう雨ばかり続いていては外じゃ遊べませんものねえ。すこしくらいは我慢してあげてもいいじゃありませんか。元気な子供を想えば、こちらも楽しくなれますし」
「それは階上の住人の都合というものだ。うえの連中が楽しいからと、周囲の人間までが楽しめるわけがないだろう。たいがい、こうして迷惑をこうむるんだ。おおかた連中のような若い家族は、このマンションには自分たちしか住んでいないとでも思ってるんだろうよ。そんなことはありえないという単純な事実を、誰かがきちんと伝えてやるべきなんだ」
「それでしたら、ご自身の声でそう伝えてくださいな。わたしがあいだに入ってしまうと、せっかくの説得力も薄れてしまいますもの」
「そうしたいのもやまやまだが、いまは出来ない相談だな。コーヒーを飲まなきゃならないし、テレビからも目が離せないし」
 わたしは鈍い香りのコーヒーを淹れ、水道の蛇口をうならせる勢いでじょうろに水を満たし、ベランダにいそいそと向かった。
「なにしてる。こんな日に水をやったら、根が腐っちまうぞ。分かるだろ、それぐらい」
 こちらに顔も向けずに放たれた言葉を、サッシをぴしゃりと閉めて断ち切り、植木鉢の黒々と湿った土に水を与えていく。
 想像力を働かせなくっちゃ。
 鉢の縁からは水が溢れていく。でも、もしもこれが晴れている日だとしたら、どうかしら。乾いた土は、可憐な花を咲かせようとする根に養分を届けるために、みるみる水を吸収していくはずじゃない。そう、もしも晴れていたら。
 想像力を働かせなくっちゃ。
 わたしは、路上を見おろした。色とりどりの傘たちが、するりするりと流れていく。まるで、岩にぶつかりもせず、うねりに巻かれもせず、うまく川の流れに乗った笹舟のように。
 想像力を働かせなくっちゃ。
 雨があがり、雲も散り、澄み渡った青空から、さんさんと陽がそそぎ始める。
 想像力を働かせなくっちゃ。
 やがて傘だけが消えてなくなると、わたしはベランダから静かにじょうろを差しだして、そうっと傾けていった。