秋の声
どこからか、虫の鳴き声が聞こえてくる。
どうやら、寝入ってしまっていたようだ。夕方に帰宅してこもった空気を入れ替えながら、すこし横になっていただけなのに……。そんなにも俺は、疲れていたのだろうか。
だが、こうして真っ暗な部屋のなかで虫の鳴き声を聞いているのも悪くはないもんだ。すず虫だか、まつ虫だか、詳しくは知らないが、狭苦しい部屋にいる事を忘れさせてくれる。瞼を閉じると些細な日常が消え、呼吸を繰り返すたびに、どこまでも世界が拡がって行くような心地よい響き。
けれども、考えてみれば妙な気分になる。俺は虫が大嫌いだからだ。ゴキブリとカブト虫の区別も俺のなかではない。害虫だろうが高価であろうが、虫はあくまでも虫なのだ。もし、湯船のふたを開けて虫どもが湯船いっぱいにうごめいていたら……。もし、冬が訪れて雪ではなく虫が降り、街中に積もってしまったら……。想像しただけでも寒気がする。子供たちが嬉々として虫だるまを作る光景など、俺は絶対に見たくない。
でも、今のところは別にかまわない。そんな気にさせてくれる鳴き声だ。部屋に満ち、世界に満ち、心に満ちる。渇いたものを潤して、尖ったものをゆっくりと溶かしてくれるようだ。手の指先や足の指先から、せせこましい俺のよどみが抜けて行く感じがする。しばらくは、何にも囚われずにこうしていたい。このまま、身を委ねたまま……。
しかし、人はいつだって現実に生きている。俺もしかり、例外なんかではありえない。やすらかな虫の鳴き声に唱和している腹の虫が、それを突きつけて来ていた。何かくれ、腹が減ったと……。
俺は、どれくらい寝てしまっていたのだろう。開け放しの窓からは冷えた夜気が入り込んでいる。とにかく、部屋の明かりを点けなければ何もはじまらない。夕飯の仕度もあるし、風呂に入って冷えた体も温めたい。
俺は横になったまま、蛍光灯から吊るしてある紐を引いた。一瞬で点いた明かりに目が眩み、俺は顔を背けて目を慣らしながら、起き上がる体勢に入った。が……、息が止まり、体が硬直してしまった。
いや、まさか……そんなバカな……。俺の視界に入り込んだ黒くて小さなものが、ゆらゆらと長い触角を揺らしている。こいつが、あの鳴き声を……俺の部屋のなかで……。やはり駄目だ。こんな姿をした奴らを、好きになんてなれない。しかもこいつは、俺の事をじっと見つめているような気がする。止めてくれ。もぞもぞと後肢を動かしているのなら、さっさとどこかへ飛び跳ねて行ってくれないだろうか。頼むから……お願いしますから……。
そして、黒くて小さな奴は跳躍した。その瞬間、俺は情けなくも甲高い悲鳴を上げてしまった。こいつの恨みをかったとすれば、いい感じで鳴いているところを部屋の明かりを点けた事で邪魔したからだろう。
俺は眼前に迫りくる黒くて小さな恐怖に怯え、ほとばしる悲鳴を抑える事が出来ず、大きく開けた口も閉じられないままであった……。