コールド、ホット、……

        コールド、ホット、……
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 今日もまた、ただ一日が過ぎ去ろうとしている。
 仕事を終え、交わす言葉もなく定時に退社し、携帯はいつものように鳴動することもない。いいかげん、携帯の存在さえ忘れてしまいそうだ。日暮れ時の帰り道、あたりには私が発する弾力のない足音と、どこかの家庭から流れ出す秋刀魚を焼く匂いだけが、あてもなく漂っていた。
 次は、どちらへ足を向けよう。右へ曲がるか、それとも左か。よしと、今度は左へ曲がることにしようじゃないか。
 私に趣味と呼べるようなものがあるとするなら、この帰路こそがそうだろう。自宅の最寄り駅から二駅手前でおりたり一駅先でおりたりしながら、勘で自宅アパートの方角を探り、知らぬ道を辿って帰宅する。ささやかで新鮮な楽しみであり、部屋の灯りを自分でともす味気なさをすこしでも先延ばしにしようとする、わずかばかりの抵抗でもあった。
 夜空には星がまたたきはじめ、まぎれこんだ住宅地の路上にひと気はなくなり、昼間の過ごしやすさが嘘のように、冷気がゆるやかに深みを増していた。
 もう冬は、そこまできているのかな。
 身を切るような寒さではないものの、なにかちょっとした温もりが恋しくも感じられ、私は前方で淡い光を発している自販機へ吸い寄せられた。
 心もとない灯りに財布をかざし、小銭を探る。住宅の壁に密着するようにして設置されている自販機は所どころ錆びの浮いた白地の古ぼけたタイプであり、ちょっとした不安がよぎった。
 中身のほうは、大丈夫だろうか。
 ざっと目を走らせてみたが、聞いたことも見たこともない胡散臭そうな商品はなかった。ただ、各飲料メーカーの商品が雑多に並んでいるだけだ。今時こんな売り方をしている自販機があるとは思わなかったが、まあ、大丈夫なのだろう。
 投入口に百二十円を入れ、五種ある缶コーヒーをながめた。ブラックに微糖、じっくり焙煎にエスプレッソとカフェオレ。もちろんホットを買いたいが、あいにくブラックはコールドしかなかった。それでは、なにを飲もうか。コールド、ホット、コールド、ホット、……。おや、なんだろう?
 右端の微糖の缶コーヒーだけ、温度を示す表示が手書きの文字になっていた。よく見てみる。まぶたをきつく閉じ、さらに見直し、見間違いでないことをしつこく確認する。やはり、そうだ。そうとしか読めない。
 そこには“人肌”と書いてあった。
 コールドでもなく、ホットでもなく、人肌だと? 冷たすぎず、熱すぎずってことなのか。ならば、ただの常温だろうか。けれど、この時季の常温だとわりと冷たいはずだ。それに、常温なんてものを売りにするなど考えにくい。と、すると、そこにはなにがしかのものがあるに違いない。
 人肌……体温……人の温もり……、か。
 私は周囲をさっと見まわして路上に誰もいないことを確かめると、気恥ずかしさをなだめすかし、タブーを犯しているようにこそこそと、しかしながら素早くボタンを押した。
 が、反応がなかった。おかしい。ボタンを連打する。飲みたい。無反応。気が急く。なんだ、どうした。微糖。飲みたい。人肌。……まさか、売り切れじゃないだろうな。
 もどかしく自販機を叩こうとした瞬間、私は思わず目を見張り、あらためて財布を取り出した。なんだくそっ、この商売上手め。人肌の缶コーヒーだけ、百七十円もするだと?
 追加の百円を入れ、ボタンを押す。缶コーヒーが出てくるまでやけに待たされている気がしてならなかったが、ようやくガタンと音がした。
 取り出し口のフタを勢いよく開けて取り出すと、私は缶コーヒーを両手で包みこんだ。ああ、いいものだ。熱すぎることのない、安らげる温もり。缶を通して沁み入るその温もりが、冷えた苛立ちをゆっくりと融かし、包みこんでいるはずの私を、かえって優しく抱擁してくれているようだった。
 一口すするとやわらかく喉をくだり、体の芯からそこはかとない安堵の波がこみ上げてくる。おおきく息を吸い、星空を見上げ、そっとはき出す。私にはなかった温もりが目の奥をくすぐり、ふるわせていた。
 なんだか、風邪をひいたようだ。鼻と喉がじんわりとつまってしょうがない。
 ちらと自販機を見ると、人肌の缶コーヒーが売り切れになっていた。そうか、もう一本と思っていたが、その方がいいのかも知れないな。私は、この缶コーヒーはもう必要ないのだと言われた気がした。代用品ではなく、ほんものを求めろと。だからこそ必要ないのだと、私には、そう思えた。
 代用品は必要ない、か……。そういえば、私にはまだ必要なものがあった。ついうっかり取り忘れていたつり銭だ。
 返却口に身を屈めると、最下段の中央に見本の缶がおさめられていない箇所があることに気づく。しかし、そこにもなぜか手書きの文字があった。
 今度は“鳥肌”と書いてある。
 もはや、温度表示ではない。おまけに、それが商品であるのかすら分からない。にもかかわらず、0円とだけ、無意味と思える値段が設定されていた。鳥肌とは、いったいなんだ。
 だが、もういい。私は人肌だけで満足だ。つり銭をしまい、鳥肌は見なかったことにして、ひと息に残りを飲み干した。
 さて、そろそろ帰るとするか。
 おっと、その前にくずかごはどこだろう。たいがい自販機の傍らに置いてあるものだが、見当たらなかった。仕方ない。私はまた周囲をさっと見まわし、空き缶を自販機の横へ置いた。
 カコン。
 そっと置いたつもりが、ひと気のない路上に予想以上の音が響いた。
 その瞬間、ピッとボタンが押された音が勝手に鳴り、自販機の取り出し口からにゅっと人の腕が突き出され、地面の上を軽快に弾みはじめた。私は呆然とたたずみ、痩せてしわの刻まれたその腕を凝視した。右に左に忙しなく動き、思案するようにすこしばかり止まると、またも動き出す腕。
 と、さ迷う腕が触れ、空き缶がカラコロと音をたてて転がった。すると痩せた腕は転がる音を頼りにして空き缶を掴むと、何事もなかったかのように自販機の中へ引っこんでしまった。
 そうか、きっとそういうことに違いない。
 私は追いたてられるようにその場を離れると、歩度を速めた。私には分かる。わざわざ確認しなくとも、私の腕に充分すぎるほどの鳥肌がたっていることが。
 0円だからとて、欲しくないものもある。
 そそくさと自販機から遠ざかる私の後方では、空き缶をくずかごへ投げ捨てるくぐもった音が響いていた。
 どうやらその音は、自販機が設置してある住宅の中から聞こえてきたようだった。