置き土産
12月25日の夜明け前、前日から降り続いていた雪がふんわりと積もり、ガラス戸越しの見慣れた町並みを青白く包み込んでいた。
「うぅ、さぶさぶ」
パジャマの上に厚手のはんてんを羽織り、ベランダへと出る。敷居から20センチくらいを残し、あとは雪に覆われていた。私はその狭い幅のところに、身を縮めてたたずんだ。
「こんな寒い思いまでして吸うくらいなら、いっそ煙草なんて止めてしまおうかな」
……言い終えるやいなや、私の口は煙草のフィルターで塞がれる。県営団地の5階から眺めているこの雪景色は、どこか神秘的な雰囲気を醸し出している。つまらぬ冗談やその気のない嘘によって、わざわざ穢す必要もあるまい……。ということにしておいて、私はさっさと煙草に火を点けた。
時おり吹きつける寒風が、紫煙を運び去るついでに冷気で身を切ってゆく。はんてんを掻き合わせ、わずかばかりの煙草の温もりにすがろうとして思わず身を丸めてしまう。
「ん……、なんじゃあこりゃ」
ベランダに積もった雪の上には、小指の先ほどの大きさの黒くて丸い物が無数に落ちていた。妻がまた、ハトにでも餌をやったのだろうか。しかし、自治会から苦情を持ち込まれてからは自粛しているはずだし、私より早く起きたことのない妻は、いまだすやすやと寝息をたててもいる。それにハトに撒く餌にしては、少しばかり大きすぎるようでもある。
「……思ったよりも、硬くはないな」
黒くて丸い物はつまみ上げて弄んでいるうちにほぐれるように潰れてしまうと、雪とは違う湿り気を指の先に残した。
空は次第に明るくなり始め、雪化粧の鮮やかさを際立たせてゆく。
「ねえねえ、サンタさんが来てくれたよ。ほらっ、これ見てよママ」
そうか、今日はクリスマスだったか。隣宅の翔太くんの声が、こんな時間から漏れ聞こえてくる。おそらく枕元に吊るした靴下の膨らんだ違和感によって、いつもより早く目を覚ましたのではなかろうか。ちいさな体にプレゼントが入った靴下を抱えて駆けまわり、つぶらな瞳を輝かせていることだろう。
団地のジィジとバァバ。私と妻は、翔太くんからそう呼ばれていた。お隣同士以上の繋がりは何もないのだが、私のどこを気に入ってくれたのかニコニコとしながら近づいて来ては膝頭に抱きついてくる。そんなことをされて、私だって悪い気などはしない。散歩中に出会えば一緒に遊びもするし、ポケットの中には翔太くんの好きそうなお菓子まで忍ばせるようになった。沈滞しがちな生活に、心地良い息吹を吹き込んでくれる。私たち夫婦にとって翔太くんは、そういった存在なのだ。
翔太くんの所へなら、サンタクロースも喜んで来てくれるはずだ。橇にはプレゼントで膨らんだ大きな袋を積み、赤鼻のトナカイを道しるべに雪が舞い降りる夜空を駆け巡って、この団地にやってくる。もちろん煙突などとシャレたものはないから、ベランダから翔太くんの元へと向かうのだろう。
目を閉じれば、翔太くんにメリークリスマスと囁きながら靴下へとプレゼントを入れているサンタクロースの姿が浮かんでくる。そして、ベランダに横づけにしておいた橇に再び乗り込むと、あらたな子供の元へと向かうのだ。
「ん、……ちょっと待てよ」
お隣のベランダに橇を止めたのならば、うちのベランダの前には、おそらく数頭のトナカイがいることになるだろう。サンタクロースがプレゼントを置いている間に、もしもトナカイ達の1頭がもよおしたのなら……。
私はあわてて屈み込むと、あらためて黒くて丸い物を凝視した。……似ている。トナカイのソレは見たことはないが、鹿のソレには確かに似ている。旅行先の奈良の公園にて幾度も踏んづけたから間違いない。おそらくこれは、トナカイの……。
何てことだ。今日の所は翔太くんに免じて許しもしようが、来年には飼い主としてのモラルを教えなければなるまい。人が住まう住居のベランダに、フンなどさせて良かろうはずは断固としてない。いや、ありえない。
私は苛々としながら積もった雪で指先を洗い、2本目の煙草に火を点けた。それにしても、後始末はどうしたら良いのだ。……不燃ゴミ、いやいや、可燃か……。いっそのこと、トイレに流してしまうか。数回に分けて流せば、詰まることもないだろうしな……。
町に降り積もった雪がキラキラと輝き出し、昇り始めた朝日が夜の痕跡を拭い去ってゆく。
私は渋々と後始末に取りかかろうとしていたのだが、トナカイが落していった黒くて丸い物は徐々に雪を透かしながら薄れゆくと、やがて跡形もなく消えてしまったのだった。