ダウンジャケット
「お父さ~ん」
アパートの部屋を出た途端、俺は駆け寄ってきた少年にきつく抱き締められてしまった。薄汚れたボロ布を被っただけの格好で、しかも野性味あふれる臭気が痛く鼻腔を圧迫する。
「やっと逢えた、お父さん。ずっと探していたんだよ僕……」
少年は泣いていた。そして声にならない想いと涙が熱となって、ダウンジャケット越しに俺の腹部へと伝わってくる。……でも、この少年はいったいどこの誰なんだろう。もしかすると、近頃はこんないたずらが流行っているのかも。しかし辺りを見回しても、それらしい悪がき仲間の姿はない。それどころか、まずい事になりそうだ。ほうきと塵取りを持つ手を止めて、大家さんがこっちを見ている。日頃から身だしなみや生活態度を注意されている俺だ。厳しい祖母のように接してくれるが、こんな状況から誤解が生み出されたら人間性すら否定されかねない。俺はとにかく少年を部屋にあげると、さりげなく窓を開け放ち、ダウンジャケットのジッパーを引き上げて少年と対座した。
「……で、君はそのう、父親を探しに?」
「はい」
「さっき『お父さ~ん』って泣いていたけど、おそらく何かの間違いじゃないのかな……」
「父の事は母から聞いていますので、絶対に間違えようがありません」
臆する事なくしっかりした受け応えをする少年だ。母親の教育の賜物なのだろう。それにしてもこの少年、どう見ても小学校の低学年くらいの年齢に思える。かたや俺は二十一歳。身に覚えがあるようになったのが四年前からだから、どうしたって計算が合わない。すくなくとも俺の子供って訳ではないようだ。とすると、
「……あのさ、君のお母さんって、どんなお母さんなのかな?」
「母は、とても強いんですよ。僕が小さかった頃の話ですが、母からはぐれてしまって道に迷っていた僕が変な奴に連れ去られそうになった時、急いで飛んできてくれて怪我を負いながらも、なんとかそいつを追い払って救い出してくれたんです」
「へえ、なんだかパワフルだね。……それであの、容姿はどんな感じだろう」
「う~ん、僕にはよく分からないけれど、みんなからは、国中で一番美しい、なんて言われています」
ものすごい美人らしいな……。まあ残念な事に、そんなものすごい美人なんて知り合いにすらいない。どうやら、なにか複雑な事情を抱えた母親が、たまたま顔見知りだった俺の事を苦し紛れに父親に仕立て上げ、無理やり少年を信じ込ませたって訳でもなさそうだ。
「あのさ、考えてみたんだけど……、君のお母さんと会った事がないようなんだな」
「そう、でしょうね」
「だからその、俺は君の父親ではないんじゃないかと……」
「当然です」
「それじゃあ……、どういう事なのかな?」
「……ああ、お父さん。はやく帰りたいよ」
両手を差し伸べたと思ったら、また抱きついてきてすすり泣きをし始める少年。
分からない。ついて行けない。どうすりゃいい。根本的にずれが生じているのは分かる。そこは大丈夫だ。けれども、その根本がさっぱり見えてこない。しかも、食費まで切り詰めてなんとか購入出来たダウンジャケットに、どんどん涙と鼻水が滲み込んでいる。さらに、少年の体温が伝わってくるのか、窓を開けているのに耐えられないほど暑い。これでは、余計に頭の中がこんがらかってしまう……。
「ごめん、ちょっといいかな。これ脱ぎたいんだ」
「本当? じゃあ、お父さんを返して頂けるんですね。よかった、話の分かる人で……」
ジッパーを下ろしていた手が力なく止まる。
「……お父さんを返すってどういう事かな。それに、俺は何も分かっちゃいないよ。君の話の入口すら見えてこないし」
「すっ、すいませんでした。……ああ、僕はなんて駄目なんだろう。あれほどお母さんと大事な話の進め方を練習したのに。これじゃあ、また怒られちゃうなあ」
「う~ん、それならこうしようじゃないか。まず君の話の要点から言ってみてよ。そうすれば、俺にも分かると思うんだ」
「……ありがとうございます。では……、えっと、あなたが着ているそのダウンジャケットは、僕の父なんです。だからお願いします。僕に父を返して下さい」
俺には無理だった。根本の部分を聞かされても、理解が出来ない。いや、もしかすると、これは新手の物乞じゃないのか。無茶な理由を振りかざし、強引に同意と物をかっさらう。そんな手に乗せられてたまるもんか。
コン、ココン、コンッ、コココン……。
まずい。この妙なリズムのノックの仕方は大家さんだ。気になって、しびれが切れたらしい。はやくこの少年を追い出さなくては、部屋の借り手としての沽券にかかわってしまう。なのにドアの外には大家さんが……。
「やっぱり、いきなりこんな話をしても信じてもらえないですよね」
「ま、まあね」
「ああ、やっぱりお母さんに怒られちゃうなあ。それに、魔法使いのジョナスにも馬鹿にされそうだし……」
「もう、いい加減に作り話なんて止めてくれよ。俺は君にあげられる物なんて、何もないんだからさ」
カチャ、カチャ、カチャ……。
うわっ大家さん。案外気が短いのは知っているけど、いきなり合鍵を使って入ってこようとは……。
「あのう……僕……」
「うるさいっ」
俺はダウンジャケットを脱ぎ捨て、玄関に走り寄った。この状況を説明する言葉を探し、鷹揚に笑い飛ばすか、卑屈にへりくだるか、どちらの立場に依ろうかと迷いながら。
「あのう……、ごっ、ごめんなさいっ」
少年の声と、大家さんがドアを開けたのは同時だった。ダウンジャケットを拾い上げて駆け出した少年は、そのままの勢いで窓から飛び出してしまった。命賭けだな、少年。二階の窓から飛び降りてまで、ダウンジャケットが欲しかったなんて……。
呆然と立ち尽くす俺と大家さん。窓の外ではダウンジャケットを咥えた鳥が、ふらふらと頼りなさげに青空の向こうへと飛んで行く。
「……あれは、あなたのお気に入りのダウンジャケットじゃないのかしら」
そうなんですよ、大家さん。……だけど俺、なんて説明すればいいんでしょうか。