雪化粧
昨夜から降り続いた雪が、見慣れた住宅街を美しくおおっている。
「おはよう、けんと君。ずいぶん早起きだね」
幼い体を包むような白い息を吐いて、けんと君が振り向く。年に数度の雪が珍しく積もった嬉しさと、うちのヒマワリの顔をくしゃくしゃにする楽しみとを混ぜ合わせ、凍えた紅葉のような両手を元気一杯ひろげる。
雪ごときに興奮するそこらの犬と一緒にしてもらっては困りますな、とでもいわんばかりに鼻を鳴らして澄まし気味に散歩し始めたヒマワリも、普段から愛想や可愛げがないと思われている顔をほぐしてもらいに、すすんで両手に跳びこんでいく。
「おや、雪だるまか。おじさんもね、小さい頃は雪が積もった日にこしらえたもんだ」
けんと君の家の玄関前には、五歳の男の子が一人で作れる程度の雪だるまが二体ならんでいた。そしてさらに作りかけの胴体であろう塊が、もっともっととおねだりするヒマワリの側にある。我を忘れて労作を壊さないでくれよ、ヒマワリ。そんなことをされでもしたら、可愛いと駆け寄られる特権を持ち合わせていないおまえさんを近所の子供たちのなかで唯一なぐさめてくれるけんと君に対して、申し訳がたたないんだからな。曇らせるんじゃないぞ、けんと君のまっすぐな瞳を。
「ずいぶんたくさん作るんだね、けんと君」
「うん、みんなとぼくのぶん」
「へえ、すごいな。それはたいしたもんだ」
けんと君のところは両親と受験を控えた中学生の姉の四人家族である。家族それぞれの雪だるまをこんな早朝から作ろうというのだから、尻込みもせず寒さに立ち向かう五歳児の勇気には恐れ入る。定年後の日課くらい守るべきでしょ、と妻に無理やり背中を押された私のように、雪化粧の住宅街を渋々ヒマワリに引きまわされているのとは訳が違う。
「すると、これがお父さんだね」
私は二体のうち、より大きいほうを指した。玄関前に堂々鎮座する威風漂う雪だるま。まさにそれは、父親の象徴たるたたずまい。
「ううん、それはママだよ」
おっ、そうだったのか。よく目をこらして見れば、雪だるまの胴体のところに“ママ”と指でつたなく記されている。なるほど。このくらいの年頃では普段接している時間の差が、雪だるまにも反映されるのかもしれない。
「すると、こっちがお父さ――」
ん、ではなかった。もう一体の雪だるまには“おねね”とある。なるほど。そうか、そうか。仕方のないことではあろうが、やはり側にいる時間の多い母親や姉に対して、より創作意欲が向くものと思える。幼稚園の送り迎えは母親がしているし、夕方には姉とボール遊びをする光景も見かけることだしな。
「それじゃあ、いま作っているのが、お父さんなのかな?」
「これは、ぼくだよ。おねねよりちっちゃいもん。パパはね、いつも一番あとなんだよ」
けんと君の屈託ない声が澄んだ空気をやわらかくほぐし、思わず頬がゆるむ。うん、そうだ。やはり、そうこなくてはなるまい。大好物を最後のひと口に残す食事のように、とっておきは一番最後に控えているものなのだ。
私はくしゃくしゃを満喫し、日頃から慢性的に運動不足である尻尾を振り疲れたろうと判断し、ヒマワリのリードを引いた。まだ散歩は始まったばかりであるし、これ以上微笑ましい創作活動の邪魔をするつもりもなかった。
「それじゃあけんと君、がんばりすぎて風邪なんかひかないようにね」
「うん、だいじょうぶ」
けんと君との出会いに、わずかばかりの愛嬌を使い果たしたヒマワリが、抜け殻のように純白の雪に小さな足跡をつけていく。もう少し滅多に積もらない雪に興奮してもよさそうなものだが、それも仕方ないのだろう。
なんせヒマワリは皮肉屋なのだから。
私には嫁にいった娘が二人いるが、ヒマワリは下の娘が勤め始めてから数年後に飼い始めた。そして娘がいた頃はそんなことはなかったが、二年前に娘が嫁いだのを機に我が家に置いていかれてからは、諸々の都合という勝手な現実のもとでやっていくしかないという事実に接したせいか、どことなく諦めからくる拗ねた態度を漂わせる犬になってしまった。
買い置くのを忘れていたドックフードがいつもの量より足りない状態で皿に盛られて出された時などは、これまでの量と現在の量を比べるようにしばし見つめ、私の詫び言を聞いているのかいないのか、まるで低く定めた自分の立場までをも噛み締めるごとくドックフードを味わっていたし、私と妻の些細な意見の食い違いから我が家の空気が張り詰めた時などは、じっと窓から外を眺めているくせに耳だけは私たちに向けて立て、仲を取り持つように心細げに鳴くことも、なだめるつもりで妻の脚に鼻先を寄せることもせず、止められない嵐の唯一の救いは必ず去るところにあるのです、とでも悟ったように遠慮がちに鼻を鳴らし、澄まして暴風をやりすごそうと自分の世界に避難を決めこんでいた。
そんなヒマワリは住宅街の端でなわばりの主張をちょろっとすませて散歩の主目的を遂げると、私を引いて、来た道を戻り始めた。
「あっ、おはようございます。けっこう積もってしまいましたね。ヒマワリもおはよう」
けんと君の家と我が家がある方面へ曲がりかけたところで、けんと君の父親と会った。
「おはようございます。あいにくとこんな日ですから、今日は早めの出勤ですな」
「そうなんです。バスも電車も定刻通りにはいきませんからね。仕方ありませんよ」
「心中お察しします。私も経験ありますんでね。それはそうと、立派な雪だるまが出来ましたなあ。家族が勢ぞろいした立派なのが」
「ああ、ええ、そうですか、ご覧になったんですね。なんともお恥ずかしい限りです」
「とんでもない、とんでもない。思わず心がほくほくしますな」
「子供のやることですから、なんともいえないんですけどね、はは。あっ、いけない、もうこんな時間だ。すみませんが、私はこれで失礼させていただきます、ははは」
「おやっ、ついつい長々と申し訳ない。それでは足元に気をつけて、いってらっしゃい」
「ありがとうございます、がんばります」
けんと君の父親の背を見送り、今日の具はなんだろうなと温かいみそ汁を恋しく思い浮かべながら、私は雪に足元をすくわれない範囲で足を速めた。ヒマワリはけんと君の家が近づくにつれ、疲労を回復させたらしい尻尾をまたもや振り始めている。どうやら帰り際のくしゃくしゃを期待しているようだ。
玄関前では、けんと君が雪だるまの仕上げにかかっていた。すじの通った鼻から、いそいそと白い息を吐き続ける腕を組んだ母親に見守られながら。
「おはようございます。立派な雪だるまになりましたね」
「あら、おはようございます。ええ、そうなんですよ。うちのけんとが朝ごはんも食べないうちから、はりきっちゃって。よく見てくださいな、自分のぶんまで一番最後に、こんなに可愛らしく作っちゃって」
私は最後に作られた雪だるまを見た。四体のなかでもっとも小さく、その胴体には一文字だけ“け”と記されていた。その隣の、先ほどけんと君が自分のぶんだといっていた雪だるまには“おねね”と記されている。
「おや、けんと君。さっきとは違っ――」
「あら、ええ、そうなんですよ。なにぶん起きてからすぐ作っていたものですから、まだ寝ぼけていたんでしょうね。まったく、この子は本当に悪いんですよ、寝起きが」
なるほどそうですか、とも頷けず、私は最初に作られた一番大きな雪だるまの胴体部分を見ていた。そこには“パパ”と記し直してあった。細くきれいな、とても五歳の子供がそうしたとは思えない丁寧さで。
「きっと夢の中にいたんでしょうね。しょうがない子なんですよ、いつもいつも夢見がちなことばかりして、現実をおろそかにしがちでしてね。でも、もう大丈夫よね。いいかげんもう目は覚めたわね、けんと? それじゃあ、そろそろ朝ごはんにしましょうね。それでは、これで失礼します」
わんと一声鳴いたヒマワリにけんと君が手を振りかけたところで、玄関のドアがばたんと閉ざされた。本日二回目のくしゃくしゃを、との希望が叶わなかったヒマワリは、玄関前に並んだ家族ぶんの雪だるまと閉ざされたドアを交互に眺めるうち、まるで思索にふける哲人のようにその場から動かなくなってしまった。私は五度目にしてようやくリードをぐいぐいと引いて帰宅をうながすのを諦めると、ヒマワリを抱えあげ、踏みしめる雪の感触だけは感じとれる以外のなにものでもない、などとつらつら考えながら我が家の玄関前まで辿りつき、散歩をしたというのにかえって冷えてしまった体のこわばりに鞭を打って腰を曲げ、ヒマワリを降ろした。
「……うるさいぞ、ヒマワリ」
ヒマワリを抱いて帰る間も、長ぐつに付着した雪を落す間も、こちらをじっと見つめるヒマワリの視線を出来るだけ避けてきたが、それにも堪えられなくなり、私はヒマワリから顔を背けたまま、思わずそう口走ってしまった。
「なんだか、どこも一緒のようですねえ」
足を拭いてやっている間も、ヒマワリの眼はそう語り続けている。私はヒマワリを黙らせようと、ことさら大きな声で帰宅を告げた。
「ただいま、いま帰ったよ」
台所から漂うみそ汁の香りだけが、お帰りなさいと迎えてくれている。
「ほらね」
とことこと居間に向かうヒマワリが、振り返って私を見つめ、鼻を鳴らす。
「うるさいぞ、ヒマワリ」
私はもう一度だけ、そっと呟いた。
今日は午後から雨になるらしい。
雪など早々に融けてしまえばいい。私はそう願わずにはいられない。