天井裏の猫

          天井裏の猫
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 ト、トトトトトトト。
 どこかの猫が、天井裏を行ったりきたり。
「しっ、しっしっ」
 外はどんより曇り空。冷え込みも厳しい。飼い猫なら住み家でぬくぬく丸まるはず。どうやら、こいつは野良猫のようだ。
「しっしっ、しっしっしっ」
 いい加減「しっ」にくたびれる。どれほど「しっ」を連呼させれば気が済むのか。このままでは一生分の「しっ」を使い果たしてしまう。この「しっ」好きな猫め。
 トト、トトトトト。
 気ままな足音が、わがままに弾む。これ以上の「しっ」を惜しみ物置から手頃な棒を持ち出し、天井をつつく。我が家の天井裏は猫の居場所ではない、と。
 ト、ト、ト、トト、ト。
 下からのつき上げにも動じぬ政治家のように、悠々と天井裏を闊歩する猫。我が物顔で知らん顔、どこ吹く風で軽やかに我が道を押し通る。ゆえに迷惑極まりなく、わずかながら怯えされられもする。
 日常生活の意識から除外された天井裏という空間に猫がひょっこり現れれば、誰だって怯えくらいはするものだ。しかし、もし妻がこの場にいたとしたら、鳥肌たてて怯える暇という贅沢など、許してはもらえまい。
 トトト、トトト、トトトトト。
 まず騒ぐ。にゃーにゃー鳴く猫に対し、ぎゃーぎゃーと。続いて、あれよあれよと猫追放の全責任がおっかぶされる。さらに「しっ」を連呼する私を見限り、「事件なんです。早くきて。天井裏に猫がいるの」と警察や消防を気軽に呼びつけようとするだろう。仮にそうしないとしても、男の資質を問われ試され実践する私に「やっといて」のひと言を捧げ、喫茶店などへ避難するに決まっている。
 トト、トトトトト、トトトトトトト。
 そんな妻もひと月程前から出産のため、実家へ帰っている。まだ予定日は先だが、なにかと準備があるらしい。おかげで握られていた手綱の張りは弛んでしまった。
 ツ、トトトト。スッスッ、トトトトト。
 猫の足運びに変化の兆し。どうしたのだろう。天井つつきの成果ではない。気まぐれな相手に焦っても疲れるだけと、私は成り行きを見守り小休止していたのだから。
 ツツツ、トトト。トト、スッ、トトトト。
 どうも行ったりきたりの散策とは違う。むしろ慌てた挙句の右往左往ではないか。
 こいつ、迷ったな。
 トトト、ドンッ。カリカリカリ、トトト。
 好きこのんで飛び込んだ出口の見えない場所ならば、せめて入口くらい憶えておくべきなのだ。情けない。それとも後戻りはしないという矜持でも貫いているのか。ばかばかしい。それが出来るなら、そうすればいいものを……。しょうがないやつ。
 カリカリカリ、トト、ガリガリガリ。
 再び天井をつつく。なんとかしてやろうと寝室への誘導を試みる。寝室にある押入れの天井板をずらし、窓を開けておけば、脱兎のごとく天井裏から外へ脱け出すだろう。
 そうか、まず窓を開けておかなくては。
 シャー、カチャ、スッ、スー。
 カーテン、鍵、窓を開け、次いで心臓がとまりかける。まずい状況に導く、絶妙の恐るべきタイミング。我が家への坂道を、終わったはずの浮気相手がにこやかに登りくる。
 もう居留守は使えない。妻の不在を知り頻繁に押しかけてくる度、どうにか凌いでこれた手段。それがいま、使用不能に陥った。
 カチャ、ズカッ、ズカッ、ズカッ。
 鍵を閉め忘れていた玄関から、浮気相手があがり込む。一夜の出来心という一瞬の火花が、悪夢のロウソクに火をともしたのだ。妻に知られれば人生を棒に振り、浮気相手に捕まれば人生を喰い散らされてしまう。
 ズズッ、サッ、ミシッ、ミシシシシ。
 どうにかこうにか天井裏にあがる。
「ふぎゃぎゃぎゃぎゃ」
 猫が毛を逆だてる。すまない。ようやく脱け出せると思わせた矢先に邪魔をして。しかし私にも私の事情があるのだ。察してくれ。
「あら、そんなとこにいたの? あたし話したい事がいっぱい。ふふ。それから、したい事もたくさん、ね。うふふ。ああん待って、一緒じゃなきゃだめ。愛してる。こんなにも愛してるの。ねえ、待ってったら」
 ゴソッ、ゴソッ、ミシッ、ゴソッ。
 蜘蛛の巣を絡ませ、浮気相手が迫りくる。
 暗く狭苦しい天井裏を、命をかけて這いまわる。ご立腹の猫に顔を三度ひっかかれようが、くじけはしない。私には策がある。浮気相手を奔走させ、かく乱し、その隙に入ってきた押入れに戻って活路を見出すという。
 ゴソッ、ミシッ、ゴソッ、ミシッ、ゴソソソソ、ミシシシシ。
「ねえ、どこなの? ねえ、ねえったら」
 押入れの明かりを確認する。浮気相手は対極にある居間の隅でさ迷っている。時はきたり。いざ行かん、光の射すほうへ。
「どうせこんな事だろうと思っていたのよ」
 心臓が、再びとまりかける。救いの道しるべであった光をさえぎり、実家にいるべきはずの妻が、突如ぬーっと現れ出でたのだ。
「……や、やあ。どうかな、身体の具合は?」
 聴く耳を持たず、ぬーっと現れ出でた勢いのまま、妻が天井裏へ這いあがってくる。
「ちょっと、やめなさい。そんな身体で」
「ねえ、どこなの、誰とはなしてるの?」
「ほほほ。あなたが心配すべきはね、あたしの身体じゃなくてよ。覚悟はいいかしら?」
 律儀にも、妻が天井板を閉める。光は絶たれた。もう自分の手すら見えやしない。
 天井裏の猫は、いつの間にやら脱け出していた。