抜け道

           抜け道
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 とあるマンションのベランダにて、男が進退ままならずに行き場を失い、凍えていた。
 下着と靴下だけの姿で身をさらし、冷めやらぬ熱情を夜風にもてあそばれながら。
「な、なぜ、こうなる。うまく、ベッドに、潜り込んだと、思ったららららら、こ、こんなところ、追いやられる、なんて。この先、先、先、どうし、たらいい」
 嘆息と一緒にがたがたと震え落ちた呟きが街灯に照らされた五階下の路上へと、かろうじて途切れがちに吸い込まれて行く。
「ちっ、くしょう。のん、のん、のん、さささささむっ、のん気に歩い、てて、やがるな」
 男は家路を急ぐ人達に自らの不運を惜しげなく分け与えるべく、がちがちぼそぼそ恵みの愚痴雨を降りそそがせた。
 するとそこへ頭上から、するりするりと音もなく縄ばしごがおりてきた。
 階上を仰ぎ見て、男ははっとした。薄暗いベランダから一瞬光明が差し、続いて無表情の老婆が顔を覗かせたのだ。
「な、なん、なん、なんだ、あんた」
 唇に押し当てた人差し指で男の問いをするどく制し、老婆は手振りで登ってこいと示している。なかば強制的に、有無をいわせず。
 縄ばしご以外、進むべき道はなし。
 老婆の眼差しが、そう語っていた。
 男は軋む関節に鞭を打って縄ばしごを登ると、老婆に導かれ温かい室内へと通された。
「さてさて、まずはご愁傷様。あんたの顔から滲み出す憤懣具合から察するに、成就叶わず春いずこ、ってところなんだろう?」
 いまだ震えやまない男を尻目に、老婆は落ち着き払い箪笥に手をかけた。
「以前はそうでもなかったが、近頃は救いの手を差し伸べてやる機会が増えてね。さあ遠慮はけっこう、どれでも好きなのを選びな」
 それぞれの引き出しには、二十代から四十代前半までに見合いそうな男物の服が、上下各種様々に取り揃えられていた。
「このところ階下の旦那が帰宅する時間が早いらしくてね、まさにこれからって時に慌ててベランダへ追いやられてしまう、あんたのような間の悪い男が多いのさ」
 男は縄ばしごを登ったのが自分だけではないことを知った。そして温かい部屋に入ったからだろうか、 男の頬には赤みが差し始めた。
「おやおや、お盛んな人妻に手を出した鉄面皮が顔を赤らめて、今さらなんのつもりだい? 服でも着てしゃきっとしな、しゃきっと」
 老婆は適当に服を見繕って着せると、流れ作業のように男を玄関まで導き、何足もある靴の中から服装に最適な一足を手渡した。
「さあ、ここを出たら取りあえず今日のことは忘れて、家に帰って休むがいい。そして必ず十日以内に、ここに戻ってくるんだよ」
 老婆は淡々と老婆の道理を説き始めた。
「いいかい、わしの救いの手はただじゃないんだ。縄ばしごの使用料、服や靴の代金、この部屋の通行料、その他諸々光熱費含む、それらをきちんと納めてもらわないとね」
 いつの間に用意していたのか、老婆は男の眼前にそれなりに懐を痛める金額が記された請求書をつきつけた。
「考えてもごらん。わしがこの抜け道を提供してなかったら、あんたはどうなる。命がけで一階までおり、警察に通報されそうな格好で無事に帰宅出来たとでも? いいや、結局ベランダで凍えたまま旦那に見つかり痛い目に遭わされるのが関の山だね。どんな旦那か知らないが、そこはまず間違いないよ。過ちは必ず報いを受けちまうからね。それに比べたら安いもんだろう? なにくわぬ顔で、このマンションを後に出来るんだからさ」
 男は請求書をながめるばかりで、受け取れずにいた。
「おやまあ驚いた、なんて救いがいのない男だろうね。こちらの善意に応える器もないんだから。まあいい、わしもそれなりに保険をかけているんだ。ほら、これをごらん」
 老婆はカメラの画像が印刷された紙を、ひらひらとさらした。そこにはベッドに潜り込もうとする姿や、ベランダでレンズの方を仰ぎ見ている姿が、はっきりと写っていた。
「でも安心おし。請求した代金を納めにきた時に、ちゃんとデータごと渡すからね」
 男は請求書を握らされ、玄関から押し出されると、無言のまま老婆の元を後にした。
 男には抜け道を提供し懐を肥やす老婆への怒りはなかった。玄関のドアを閉める際「今月は実入りがいい」という呟きを耳にしてさえ、男には老婆への怒りは湧かなかった。
 だが、男は震えていた。
 それはベランダで骨にまでしみた寒さからではない。
 だが、男は震えていた。
 そして男は、「疲れてるの」の一言で夫である我が身を拒絶し、ベランダまで一蹴した階下にいる妻の元へ、一歩、また一歩と、黙したまま戻っていった。