恩返し

            恩返し
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 尋常でない寒気に、ふと目が覚める。深夜二時。暗がりのなかで、目覚まし時計の蓄光塗料だけが鈍い光をもたらす。
「さ、さ、さ、さぶい」
 まるで部屋中が凍りついているようだ。
 これでは、おちおち寝てもいられない。
 俺は枕元のリモコンを手探りし、こわばった指で暖房のスイッチを入れようとした。
「だめっ。それだけは、やめてください」
 頭上から唐突に降ってきた明瞭な声に、全身がバネと化したように跳ね起きた。部屋のなかに、女性がいる。むろん、身におぼえはない。俺は後退りし、その勢いで壁に背中を打ちつけ、おもわず呻き声を漏らす。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはありませんでした」
 それなりの覚悟を瞬時に迫られたが、詫びを入れるなんて殊勝なところをみると、どうやら泥棒の類ではないらしい。
「昨夕はありがとうございました。おかげで助かりました」
 お礼まで。すると、幽霊でもないのか。
「わたくし、恩を返しにまいりましたの」
 昨夕は雪のなかを歩いて帰宅しただけで、人助けなんかしちゃいないが。
「あの、おそらく人違いかと。なにも思い当たりませんし」
「そんな、ひどいわ。わたくしを、あんなにきつく抱擁しておいて」
「え?」
 いや増す寒気が、全身をふるわせる。
「あなたの腕のなかが暖かくて、わたくしとろけてしまいそうでしたの。でも、それも悪くない、なんて思えて……」
「へ?」
「いやですわ、とぼけてばかり。本当は、わかっているくせに」
「は?」
「んもう、部屋のあかりをつけていただければ、おわかりになりますわよ」
 俺はいわれるままにあかりをつけた。とにかく、相手を確認しなければ埒があかない。
「うふふ、こんばんは」
 蛍光灯に照らし出されたのは、
「あっ、あの時の……」
 雪だるまだった。
「わたくしです」
 確かに昨夕、雪だるまを助けていた。帰路の住宅街を徐行運転していた車が目の前でスリップし、雪だるまに接触。その拍子に転げ落ちてしまった頭部を抱え上げ、俺はもとのように据え直してやった。雪だるまとはいえ、路上に頭部が放置されたままというのも、哀しいようないやな感じがしたからだ。
「恩返しって、その格好で?」
「不都合ありませんわ」
「そう、ですか」
「なにか?」
「いえ、恩返しというと、人の姿になってからくるものじゃないのかな、なんて。例えばですね、うら若き女性の姿とか。……すくなくとも、二頭身じゃなくて」
「なんだか、不純な濁りを感じますわね」
 ある意味純粋でしょう、といいたかったが、俺はいえなかった。歯がガチガチと鳴っていたのだ。とりあえずベッドに腰かけ布団に包まったが、無性にリモコンが恋しい。
「それでは、わたくしに出来うる最善の恩返しをさせていただきます」
 雪だるまは頭に載せていた子供用のバケツを床に置くと、胴まわりの雪をせっせとこそぎ落とし移していった。
 おそらくこれは、鶴の恩返しでいうところの機織の過程なのだろう。
「そういった姿を、堂々とみせちゃっても構わないんですか」
「ふふふ、このような姿を隠す必要などありませんのよ。むしろ、わたくしの想いのたけを見届けていただかなくては……」
「はあ」
「それに、減るものじゃありませんもの」
 バケツには、どんどん雪がおさめられてゆく。
「ずいぶんウエストが細くなったようにみえますが」
「まあっ、細かいことに気づく男性は敬遠されてしまいますわよ。それとも、それだけわたくしを気にかけてくださっているという証左として、受けとめてもよろしいのかしら」
 しばし手をとめ、雪だるまが視線を投げてくる。湿った木炭の瞳が、心なしかより潤んだようだ。俺は鼻をすすり、先を促し、言葉尻をすくわれないよう、無駄口をおさめた。
「さあ、お待たせいたしました」
 雪が山盛りになったバケツを、そそと押し出す。どうみても、かき氷の印象を受ける。
「わたくしを、御賞味くださいませ」
 やっぱり、そうなのか。
「あら、お嫌いですの」
「と、いうかですね、なんですか、その、時季も時季ですし、腹も冷えちゃいますし」
 嬉々としていた雪だるまが、急に沈みこむ。
「わたくし、あなたさまの御迷惑も顧みず、いけないことをしてしまったのかしら……」
 それまで発していた想いとやらがしぼみ、その姿さえ小さくなったように感じる。
 心得ようもないことだが、なんとも扱いにくい雪だるまだ。
「そういえば、昨夕よりも綺麗ですよね? 昨夕はもっとこう、土というか、埃にまみれた労働者の鑑、みたいな姿でしたが」
「わたくしが生まれた時にはさほど雪が積もっておりませんでしたし、車の排気ガスにも燻されてしまって」
「でも今は、眩しいくらいに純白で美しいなあなんて思いますよ、あははは」
「わたくし、あなたさまに御会いするのに恥ずかしくないよう、雪化粧をほどこして身だしなみを整えてまいりましたの」
 雪だるまは背けていた瞳を俺にむけ、訴えかけるように視線を据える。わたくしを、食べてはくださらないのですか、と。
「……ああ、そうそう。実はシロップがね、ないんですよ。いちご味が好みなんですけど、あれがないとどうも、いや、残念だな」
「このままで、お召し上がりください。ありのままのわたくしが、いちばん甘いのですから」
 バケツの雪は、けっこうな量だった。この寒さでは融けそうもなく、なかったことにもならないだろう。誤魔化しはきかない。これでは時間だけが無為に流れてしまう。居座られるのは、なお困る。
 仕方なく意を決し、俺はバケツを手にした。こういったものは、一気に片づけるしかない。
「まあ、そんなにも激しくむさぼるように、わたくしを……」
 俺は食った。勢いにまかせ、シャリシャリと、一心不乱に食った。
 あますとこなく雪をたいらげ、空のバケツをそっと置く。雪だるまは、放心したように俺をみている。だが、その表情からはなにも読み取れない。
「ごちそう、さまでした」
「いやですわ、そんなことをおっしゃるなんて。それよりも、わたくしの味はいかがでしたでしょうか」
「はあ、そういわれましても」
「……いじわる、ですのね」
 とにかく、雪だるまのいう恩返しはこれで済んだはずだ。はやいとこ、お引取りを願いたい。しかし、雪だるまは微動だにせず、余韻を楽しむように、重く澱んだ沈黙におぼれている。
 この先俺は、どうしたらいい。寒すぎて体の震えはおさまらず、胃までキリキリと痛みだしている。もはや、限界だ。
「あら、この音はなにかしら」
 ほらみろ。俺の腸が、音を上げた。
「すいませんが、お引取りを」
「あのう、なにをおっしゃって……」
「いいから、はやく」
「……おかわりは、していただけませんの?」
「けっこうですって」
「わたくしは、あなたさまに我が身をすべて捧げるために参ったのですよ」
「もう勘弁してくださいよ。いったい誰のせいで腹をくだしたと思ってるんですか」
「…………」
「あの、ほんと、これ以上は無理なんで」
「……………………」
 俺は雪だるまの返事を待たず、トイレへと駆けこんだ。
 三十分後、やっとのことで部屋へ戻ってみると、そこに雪だるまの姿はなかった。だが、寒気の緩みはじめた部屋のなかで、床だけが、名残惜しそうにいつまでも湿っていた。

 その朝、昨夕の場所に雪だるまはいた。俺の足音に聞き耳をたて、意識しないよう意識しながら、知らぬ素振りを決めこんでいる。
 こちらにしても、大差はない。気まずいのはお互い様だ。すれ違いに声をかけようかと思い迷ったあげく、結局、俺はなにもいえず無言のまま通り過ぎた。
 雪だるまの表情は、相変わらず読み取れやしなかった。
 ただ、背中に突き刺さる視線がやけに冷たく感じられ、俺はその場を追い立てられるようにして、足早に住宅街を抜けたのだった。