枯れ葉

           枯れ葉
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 狭かった部屋が、やけに広く感じられる。妻が家を出て行ったからだ。簡単な別れの言葉を綴った置手紙には、枯れ葉が一枚挿まれていた。妻と枯れ葉。信じたくないことだが、やはり妻はタヌキであったようだ……。

 私と妻との出会いは、二年前の月明かりがにじむ公園だった。田舎での順調な暮らしを捨ててまで己の力量を試そうと上京してみたものの、都会の生活に馴染めないでいた私は、背を丸めて古びたブランコに揺られていた。すると都会では珍しいタヌキが、物欲しそうに眼を光らせて現れたのだった。
 断っておくが、このタヌキを妻だと言っているのではない。
 私の田舎では家を空けるたびに食料をあさるような狡猾な連中なのだが、このタヌキはずいぶんと人の姿に馴れているように思えた。私の手元を見つめて鼻を鳴らしている様子に、田舎での印象は重ならない。都会の懐に飛び込んだのなら、その生き方すら根本から変えるべきだ。そう言われた気がした私は、都会で生き抜く厳しさを噛み締めながら、コンビニで購入したばかりの稲荷ずしを思わず与えてしまっていた。
 そんな私に「ありがとう」と、背後から唐突に声をかけてきたのが、妻だった。やさしく響く声に振り向いた私を、やわらかい微笑みで迎える妻。
「この子たち、いつもより喜んでいるみたい」
「あなたが毎日食料を?」
「ええ」
 けっして美人とは言えないが、妻は心を委ねてしまいたくなる安らぎをくれる女性だった。だからこそ都会の人間に対して抱いていた警戒心をすっかり忘れ、妻の温もりに触れる口実として、公園のタヌキに食料を与えるのが日課となってしまったのだ。
 いま思えば、この時からすでに化かされていたのだろう。若さにかげりが見え始め疲れきった雰囲気さえ醸す私などに、若い女性の方から話しかけてきたのだから。

 一年と半年の結婚生活のなかで、妻の変化は目まぐるしかった。
「あなたの妻として、恥ずかしくないようにしなくちゃ」という言葉を楯にして化粧を覚え、海外ブランドの品々を身にまとっては高級レストランに友人たちと足繁く通う。私の少ない稼ぎで腹鼓を打つ妻に何度も注意をするが、とぼけた顔をして聞く耳すら持たない。なおかつ賭け事にまで打ち興じ、ホストクラブに入るところを見かけたのも一度や二度のことではなかった。
 結婚して日も浅いうちからカードローンの支払いに追われ出した私の常食は、インスタントのキツネそばになっていた。
 キツネそば。なんでも関西方面ではタヌキそばと呼ぶのだとか。その名称の違いから、大喧嘩にまで発展したこともある。もちろん妻は関西風の名称を固持。お揚げがあれば満足な私に対し、認識を改めろと迫る。私もついつい、それまでの不満をぶちまけ応戦。屋外に家具が散乱した頃に警官が駆けつけ、存分に腕力を見せつけていた妻が急に怯えたように黙り込んで落涙する。結果、タンスの下敷きにされたまま警官にたしなめられてしまう私……。この大喧嘩以来、もともと妻の方が積極的だった夜の営みまでふてくされたタヌキ寝入りによって拒絶される始末。
 ……妻はタヌキかもしれない。そう疑ってはいたのだ。だが、妻がふと見せる優しさの欠片を拾い集めていた私は、妻の尻尾を掴むどころか、見てしまうことすら避けたまま、日々の暮らしに流されてきたのだった。

 玄関のドアが激しく叩かれ、膨れあがった借金の返済を求める声が執拗に響いてくる。
 私にも、都会での生活に夢や計画があったものだ。それもこれもすべてが砕かれ、何もかも吸い上げられた。……私ともあろう者が、タヌキごときに情けない程うまく化かされてしまった。しらずしらず握り締めていた掌のなかで、置手紙に挿まれていた枯れ葉と、出会った頃の妻の微笑みが乾いた音を立てながらゆっくりと崩れて行く。
 ついにドアが壊され、人相も風体も悪い連中が土足のまま雪崩れ込んできた。
 私は、これから田舎に帰ろうと思う。そして、裸一貫からやり直すのだ。荒げた声で騒ぐ連中の足元をすり抜けて玄関を出ると、私は妻の面影を振り払うように田舎へ向かって一目散に駆け出した。妻が頭上に戴いていたであろう枯れ葉をまき散らし、うまれたままの姿に戻って、私本来の鳴き声で泣きながら……コン、コン、コオ~~ン。