それはないだろう
のんびりと新聞が読める静かな休日の昼下がり。のはずであったのだが、井戸端友人から聞きこんできた新鮮な噂話を、女房はスーパーの買い物袋を手にしたまま、鮮度が肝心とばかりに息せき切ってしゃべり始めるのだった。
「山下さんの奥さんが聞いた話らしいんだけれど、世の中にはすごい人がいたものねえ。なんでも、その人って極端なほど怖がりだったらしくて、交通事故の被害者や加害者になりたくないとかで車に乗るのを止めて歩くようになったんですって。しかも、道を歩く時はできるだけ壁際を歩くようにしていたから、近所の小学生から忍者呼ばわりされていたらしいわ」
私の湯呑みを奪取した女房は、粗茶で喉を潤しにかかる。
「ほほう、忍者か。それはすご……」
安易に同意しかけた私の言葉を上塗りするように、慌ててしゃべりだす女房。どうやら、まだ続きがあるようだ。
「でもねえ、様々な壁に背中を擦りながら考えたみたいなのよ。いままさに地震が起きたらどうしようって。ブロックの塀が倒れるかも……とか、マンション屋上の給水タンクが落下するかも……とか、ビルの窓ガラスが粉砕して降り注ぐかも……とか、かも、かも、かも、の繰り返し。それで今度は、走行中の車を避けたり、倒壊するかもしれない建物を避けたり、ずいぶん蛇行して歩いたものだから、よく利用する商店街の人たちから酔っぱらいだと決めつけられて敬遠されてしまったんですって……、ふう」
無言で差し出される湯呑み。黙って急須を傾ける私。まいったな、条件反射は治らないのだろうか。
「ほんと、すごい話よねえ。安全対策とか言い出しては、色々と買い込んだり売り込まれたりして生活も逼迫していたそうよ。でもその人、呆気なく亡くなってしまったのよね」
「なんでそんな事に? 怖がりだからこそ、よくよく注意していたんだろう」
「詳しくは分からないけれど、注意しすぎたんじゃないかしら。……亡くなるすこし前なんて、外出時は異様な光景だったらしいわよ。化学防護服なんてものを着用して、空気を伝わって人体に影響を及ぼすであろう多種多様な危険から身を護っていたそうなの。そんな格好でデパートの食料品売り場でカートを押していたり、洋服売り場の試着室で三時間も試着を試みたあげくに泣きながら陳列棚にジーパンを戻したり、映画館で後ろの座席の人から小突かれ続けたり、興味本位で後をつけてきた少年の親から子供を連れまわした誘拐犯だと決めつけられたりしたんですって。なんだか大変よねえ」
「……それで、死因は?」
「それが、気を失って倒れた拍子に頭を強打したんですってよ。で、気を失った原因はというと、自分のオナラなんですって」
「オナラで? 化学防護服なら酸素マスクも着けているはずだろう」
「それがね、そんな状態に馴れすぎて、着けているのを忘れてパニックを起こしたんじゃないかって。ほら、老眼鏡をかけているのに探してしまう感覚。それで、完全防備の防護服でしょう。自分のオナラの臭いがどんなものか分かっていれば、怖ろしくて慌てふためくわよ。……そんな事もあるのねえ。はあ、一気にしゃべったら疲れちゃった」
ようやく買い物袋を床に置くと、女房は肩を回し始めた。最初から買い物袋を手放してしゃべればいいものを、ぐるぐる、ぶんぶん、肩をならし、腕まで振っている。どうせなら、口も疲れを覚えるようになってほしいのだが。
「あらやだ、お刺身が痛んじゃうじゃない」
買い物から戻ったら、冷蔵庫に食品をしまう。自発的に思い至ってくれた女房は、勢いよく買い物袋を持ち上げた。が……。
ぼぉふぁぁぁっっっ。
なんて事だ。気の緩んでいた体を急激に力ませたからか、女房は窓ガラスを揺らすかと思われるような特大なオナラをした。
「ほほほ、ごめんあっさ~せぇ」
臭いが、尋常でなかった。音の大きさと臭いは比例しないなどと聞いた事もあるが、確かな例外がここにあった。女房は、そそくさと台所へ逃げ出してゆく。私も是非そうしたい。しかし、まっとうな口実が思い浮かばない。後々急に思い出したふうを装って「なんであの時逃げ出したのよ」なんてねちねち責められるのも避けたい。こんな場に一人取り残されてしまって息苦しくなりながらも、私には読みかけの新聞を折りたたんで極力音をたてないように扇ぐ事くらいしか出来ない。
気持ちを大きく持ち、けっして過剰に反応はするまい。とは思うものの、らっきょうを毎朝二十個も食べる女房の健康法ってものが、恨めしく思えて仕方がないのも事実である。