謎のプレート
私には、どうにも気になって仕方がないプレートがある。
壁面に打ちつけられた釘から吊るされているノートサイズのそのプレートは、最寄り駅の裏の路地、自動販売機同士の狭間にあった。
この街で生活している私にしても、そのプレートの存在に気づいたのは最近のことだった。息苦しそうな狭間でほんの数秒間、なにかをしている人たちがいたからだ。
スーツを着込んだサラリーマン風の壮年男性。配達途中らしいピザ屋の店員。歯科衛生士と思われる制服を着た女性。ギターケースを背負った全身皮革製品尽くめのロッカー。休憩時間に飲み物を購入しているようにも見えた建設作業員。……などなど、様々な人たちが立ち寄っては去って行ったのだ。
あの場所に、なにかあるのだろうか……。そんな些細な興味から、実際その場に立った私が自動販売機の発散する熱で埃臭いだけの狭間に見出したもの、それが不動産屋の名が書かれているプレートだった。だが、表面はかなり汚れ、連絡先はおろか簡略化された地図すら記されておらず、広告として役に立っているとは決して思えなかった。さらには、場所が場所であり、大概の人たちは見ても気にしないか、最初から気づきもしないだろう。
なのに何故、あのプレートは存在しているのだろうか。そして、様々な人たちが立ち寄る理由とはなにか……。日をおいて考えれば考えるほど謎は深まって行き、以来、どうにも気になって仕方がなくなっていたのだった。
そしていま、私は思わず足を止めてしまっている。
板前風の人物が、プレートの前に立っていたのだ。その光景自体は見慣れていたが、問題はその手元だ。なんとプレートを裏返し、なにやら書き込んでいるではないか。私の胸は躍った。あの裏面にこそ、答えがあるようだ。はやく確認したい。ずっと気になっていた謎が、謎ではなくなる瞬間をすぐにでも味わいたい。私は逸る気持ちを強引に抑えつけ、ほどけてなどいない靴紐を直しながら、板前風の人物がこの路地から見えなくなるまで充分に時間を稼いだ。
心臓は高鳴り、緊張からすこし手が震えている。ついにこの時が来た。ゆっくりと深呼吸をし、気後れしている自分に苦笑しつつも、なんとか手を伸ばして謎のプレートをそっと裏返した……。
……これは、一体なんだろうか。
裏面には、ざっと数えて15人ほどの名字が書かれていた。そして、名字の横に並んだマス目のなかにチェック記号が印されている。おそらくこのチェック記号は、なにがしかを済ませたという事を示しているのだろう。だとすると、この前田という人物はかなり優秀なようだ。20ものチェックを済まし、残るマス目はあと10しかない。他の人たちと比べてみても、チェックの数は抜きん出ている。
チェックの印し。その意味するところを、あえて良い方向に考えてみるならば……。
善意を持った人たちの集まりが自らの手を他人に貸し、『ありがとうございました』と御礼を言われたらプレートにチェックして行く。たとえば、駅の階段に差しかかったベビーカーを押す母親にとか、駅の周辺地図を見ている人に道案内を買って出るとか、乱雑に停められた自転車の群れのなかで悪戦苦闘する人の自転車を引き出してあげたりなど、それをさりげなく、あくまでも偶然を装いながら行っているのではないだろうか。
そうしてマス目が埋まり次第、なんらかの賞品を貰うのかも知れない……。『ありがとうございました』という感謝の言葉を記号化してマス目を埋める。そして見返りに賞品を得る。おそらく、それなりの達成感もあるのだろう……。だが、なにかが違う。このプレートの存在意義に、そんな善意のようなものは含まれていないように思える。
とすると、やはりなんらかの悪意がある方向だろう……。
たとえば、一方通行の道路標識を逆向きにするとか、スーパーで販売している生卵をゆで卵にすり替えるとか、車のナンバープレートの1の数字を4に書き替えるとか、総菜屋のから揚げを湿らせてしまうとか、購入しそうなタイミングを見計らって炭酸飲料を振っておくなど、大きな事件を引き起こすのではなく、悪戯ともとれそうな小さな悪事を繰り返しているのではないだろうか。日々の生活にいらぬ苛立ちを生み出し、職場や家庭などで余計な軋轢として育ませる。それが積み重なって鬱積し、耐えられなくなったその先に、本当の成果が実る。それが狙いかも知れない。
それにしても、謎の出口だと思われたプレートの裏面は、その実入口であったようだ。しかも、その入口すら不動産屋の名をもって巧妙に隠したままでこのプレートを据え続けているとは、一体どんな連中なのだろうか。謎は深みを増して行くばかりだが、私などには知る術なんて思いもつかない……。
……もう、今日のところはこれで引き上げよう。この場で考え続けていても得られるものはないだろうし、なにより時間を過ごしすぎている。謎のプレートの前である以上、誰に見られているのかも分からない。
そうしてプレートから手を離した瞬間、私は肩を叩かれた。呼吸は止まり、指先が冷たく感じられる。なんて事だ。おそらく……、いや、間違いなくまずい事態に陥ったようだ。
ずいぶんと気が短い背後の人物は、力の加減を強め、再び肩を叩いてくる。逃げ場のない私は、なんとか気力を奮い立たせて呼吸を整えると、酔っぱらいの立小便の振りを決め込んでから恐るおそる振り向いた。
ゆっくりと、ゆっくりと背後の人物が視界の中に入ってくる。身長は私よりも高く、ガッチリとした体型にはダークスーツが映えていた。そして顔は……、顔は分からない。その人物は、なぜか両手を顔の前に掲げていたのだ。とっさに殴られると思った私は、距離を取ろうとブロック塀に背を押し付けた。
その時、まばゆい閃光が眼前で光り、かわいたシャッター音が響いた。
……私の顔が、写真に撮られた。私の存在が、謎のプレートを据えている連中に知られてしまった。足早に遠ざかる足音が、慣れた落ち着きを響かせて行く。なんて狡猾な連中だろうか。なんて汚い……なんて……。
眼が眩んでしまった私は、それでもコンクリートの壁を伝いながら力なく歩き出した。とにかく早く家に戻りたかった。そして、この出来事を改めて考え直したかった……。
徐々に回復して行く世界のなかで、駅の裏路地を行き交う人たちの私に対する視線はどこか刺々しくもあるが、なかには妙に親しげなものも混じったりしている……。