賽を振るう神の手
風もないままに、病室のカーテンが揺れる。
染みつく薬品の臭いに鼻を撫でられ、老人は気力を奮い起こし、重そうに瞼をひらく。
「いずれ迎えがくるとわかっていたが、ついにきてしまったのか。わしのもとにも」
老人は音もなく病室にすべりこんだ背の高い痩せた男に、無理に微笑んでみせる。
午後の遅い陽がせめてもと、くすんで温もりのない室内を、黄昏の色彩で覆い隠す。人懐こそうな同室の老人は、いつからそうしているのか、隣のベッドで気持ちよさそうに寝息を立て、夢の世界で羽を伸ばしている。
「だが、もうすこし、せめてあと一年、あの世に連れ去るのを待ってほしい。お願いだ」
傍らの椅子に腰をおろした男が顔をあげ、すがりつく老人に、鷹のような眼を据える。
「わしは人生の大半を仕事に捧げ、必死に働いてきた。財を成すのが人生の価値とかたく信じ、散財を避けるために家庭は持たず、人さまにいえない汚れ仕事にも進んで手を染めてきたのだ。そうして、財産を築きあげた」
男は青白くこけた頬を緩ませただけで、身じろぎもせず耳を傾けている。老人は乾いてひび割れた唇を湿らせる暇もおかず、とめどなく溢れる想いを、かぼそく吐露していく。
「しかし、そんなものに価値などなかった。この病を患って以来、そう考えている。わしはこの人生でなにも得られなかった、とも」
老人の瞳から零れた涙が、頬を伝う。
「だが、わしもばかじゃない。人生がやり直せないことは承知している。だから、あと一年だけ待ってほしい。人生を捧げて貯めこんだ金を、せめて悔いなきよう使わせてくれ」
老人は涙を拭いかけた男の細長い指を、弱々しくも決然と、手を振って払いのける。
「そこで取引をしようじゃないか。わしは自宅の敷地の隅に、財産の半分を宝石に変え埋めてある。そちらをあんたに進呈しよう。その代わり、この病を消してくれ。お願いだ、せめてあと一年の健康な余命。それくらいあんたなら、どうにでも出来るのだろう?」
だが埋蔵場所を告げた途端、老人は気力が底をついたのか、全身を震わせ始めた。男はするりと立ちあがり、老人に手を差し伸べる。
「ああ、後生だから、まだ連れ去らないでくれ。せっかくの宝石が土の肥やしに成り果ててしまう。頼む、わずかでいい、慈悲の心を」
額に触れた男は、哀訴する魂を鎮めるかのように、黄昏に濡れた瞼をそっと閉ざす。
「……そうか、わしに残された悔いの数だけが、人生を生きた証というわけか」
やがて老人はベッドに深く沈みこむと、口もとを緩ませ、どこか満ち足りた微笑みさえ、その顔に浮かべさせた。とても安らかに。
陽が彼方の地へ没しながら、黄昏の色彩を連れ去っていく。この世界から切り離されたような、ゆるりゆるりと沈滞していた病室の時間が、きびきびと入室した看護師により、正常な時の流れに戻される。
「失礼します。体温を測りましょうね」
安らぎを迎えた老人の微笑みは、看護師がすげなく引いた仕切りカーテンにより遮断され、青白く影の薄い男は、それを機に、いまだ隣で寝息を立てる人懐こそうな老人に手をひと振りし、「いずれまた近いうち」と声をかけ、鷹のような眼に鈍い光をはらませながら、音もなく病室から抜けでていった。
闇夜に蠢く怪しき人影に、灯りが射す。
「おたくねえ、困るんですよ、我が家の敷地を好き勝手に掘り返されちゃ。昔から土地の境で散々揉めてきて、入院中くらい静かにしてくれるのかと思ったら、同室者の見舞い客に死神やら宝石やら、大した病気でもないのに下手な作り話まで吹きこんで……。いいですか、おたくで今月四人目ですよ。まったくあのじいさん、とんだ疫病神なんだから」