ベストパートナー

         ベストパートナー
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 ゴリラが空を跳んでいく。
 朝日を受けた手もとが、きらりと光る。
 一瞬後、背後の窓枠にナイフが突き立つ。
 わたしは、ゴリラに命を狙われている。
 半年前、人里離れた山小屋で独り暮らすわたしのもとに荷物が届けられた。中身はゴリラを模したロボット。背の高さは人間の五歳児程度。横幅は背の高さに見合う通常のゴリラ幅。主に孤独と孤立に埋もれがちな高齢者向けに開発されたベストパートナー。
 その名もゴリちゃん。
 ゴリちゃんは身のまわりの世話を焼き、会話を重ねながら奉仕し、成長していく。なかには、わたしのように高齢者の二歩手前で購入する者もいる。なにかと役に立つからだ。
 世間と距離をおいて暮らすわたしには、それはなおさらだった。雨漏りの修理。屋根のうえで釘を忘れたと気づく。手伝う知人でもいれば声をかけるだけですむが、わたしの場合、はしごを降りなければならない。それも独り言の文句を自分に垂れながら。しかしゴリちゃんがきてからは、はしごを登る必要すらなくなった。修理の仕方をあれこれ教えたところ、代わりに直してくれたのだ。わたしがそうするより、それは見事な手際で。
 ゴリちゃんを侮ってはいけない。
 手先は器用であり、身体能力はゴリラらしからぬ俊敏さ。なにより望まれるままに与えた仕事の呑みこみが、おそろしく早かった。
 ささやかな菜園。新たな植えつけ。
「まず土を起こすんだ。こうして」
「なるほど。では、あとはぼくがやります」
 ゴリちゃんは快調に鍬をふるい、わたしが慎重に種を蒔くわずかな間に、猫の額ほどの菜園が胴体の半分ほどに拡張されていた。
「おいおい、そんなに野菜ばかり食えんぞ」
「了解、了解」
 日々の糧。狩猟。罠の設置。猟銃の扱い。
「獲物ごとの習性を知るんだ。そして行動を読む。その読んだ先に罠を仕掛ける」
「了解、了解」
 翌日、山小屋の入口付近は、ちょっとした動物園の様相を呈していた。まあ、元気に動きまわるのは、ゴリちゃんだけであったが。
「猟銃は慎重に扱い、脇を締め、的を絞り、一発で仕留めること。手負いの獣は危険だ」
「了解、了解」
 ゴリちゃんが山にはいった日の夕方、雑木林を縫いながら一頭の熊が向かってきた。積んでいた薪の山が小山になるまで投げつけたところで、くぐもったゴリちゃんの声がした。
「さすがにバッテリーの消耗が激しいです」
 ゴリちゃんは熊を背負ってきていたのだ。
 ゴリちゃんに心を許しすぎてはいけない。
 ゴリちゃんに生活の諸事を任せるようになって以来、わたしには揺り椅子で物思いにふける時間が生まれていた。過去をひも解き、それまで成し遂げてきた輝く甘美を土台にして、人生における苦味や苦痛さえ、一定の距離を保ちながら冷静に味わい直していった。
 そうしたある夜、揺らぐ暖炉の炎が口もとを緩ませ、胸の奥まで溶かした。わたしは酒を片手に語った。幼い頃に両親を失い、存在すら知らされていなかった伯父のもとで生きる術を叩きこまれたこと。そして、わたしを自分の分身のように育ててくれた伯父を凌いだ男として、世界の頂点にのしあがり、安穏と引退生活をおくる現在に至るまでを。
 年のせいだろうか。ゴリちゃんには、わたしという人間がどういう人間であるか、知っておいて欲しいと思った。わたしを知って側にいるのと、わたしを知らずに側にいるのとでは、まったく違う。一日を迎える起床の気分も、繰り返される食事の味も、酒が進むにつれて指先まで穏やかに温まる酔いの心地よさも。仮にゴリちゃんがわたしを知ることで山小屋に留まりたくないと望んだとしても、それはそれで仕方がないと、わたしなりに割り切った。過去を知らせもせず共に暮らすのは、らしくもないが、卑怯なことだと思えたからだ。
 ゴリちゃんは合成樹脂の瞳を曇らせもせず、ゴリラなりの神妙な面持ちで耳を傾け、語られた内容を理解し、わたしという人間を共有した。それがベストパートナーの特質であるらしい。重ねた会話や行動から持ち主の心を学び取り、同化することで、かけがえのない存在となる。友人や家族としてのそれではなく、もう一人の、わたし自身として。
 だがゴリちゃんは、ゴリラであるべきだ。
 すくなくとも野心を抱かせてはいけない。
「了解、了解。じゃあ、ぼくは世界一」
「いやいや、ちょっと待ちなさい。わたしこそが世界一なんだ。おまえさんじゃない」
「でも、ぼくはあなただから。そういうこと」
「しかしなゴリちゃん、おまえさんはわたしなんだから、特にこういった場合においてはだな、わたしに譲ってしかるべきであろうが」
「ぼくはあなただからこそ、絶対に譲らない。それはあなただって、よくわかってること」
 そういい残して山小屋を飛びだしたのが昨夜だった。我で凝り固まる頭を冷やせば、山小屋に帰ってくるだろうと思っていた。
 だがいまになってようやく、それは甘い望みにすぎなかったと、窓枠に突き立つ頬を掠めたナイフによって気づかされた。まるで自分で自分の頬を張り、目を覚まされたように。
 かつてのわたしが伯父や同業者をそうしてきたように、ゴリちゃんは、わたしを排除することに決めたようだ。そして世界一の名声欲しさから、嬉々として執拗に追い詰めてくるだろう。わたしは隠し部屋の武器を手に、山小屋にこもった。ゴリちゃんは尊大な自惚れから、気配も消さず山小屋の周囲を悠々と駆けまわっている。そうして優位性を誇示し、こちらの生きる望みを削ごうというのだ。猫が鼠をもてあそぶごとく、過去、わたしがそうしてきたままに。
 ゴリちゃんを殺し屋にしてはいけない。
 わたしを恐れて山小屋から去るならまだしも、こればかりは許せない。引退したとはいえ世界一の殺し屋という名声を誇ったこのわたしが、生意気にも自惚れたゴリラ風情のロボットに殺される? 笑えないジョークだ。
 勝機はある。ゴリちゃんを消耗させ、バッテリー切れにすればいい。所詮はロボットだ。
 そう考えることくらい、とっくに考えていたのだろう。わたしの覚悟をあざ笑う雄叫びが、裏手付近から轟いてきた。やれるものならやってみろ、と暗にほのめかしながら。
「うほっ、うほっ、うっほっほっ」
 なんて可愛げのないゴリラだろう。