歩行特区
“社会人としてモラルある歩き方”をスローガンに始められた歩行特区制度。運用から二年が経ち、歩行特区に指定される道が徐々に増えている。その区域内においては周囲に気を配り正しく歩きましょうという条例なのだが、会社側も社会人の鑑となるよう歩行特区の通行許可証、通称歩行免許の取得を奨励している。実際問題、駅から会社までの道程十分のうち、歩行特区に指定された道は三ヶ所ある。この三ヶ所を避け、指定外の道で会社に向かうと三十分もかかってしまうのだ。
俺は運用から三ヶ月で歩行免許を取得していた。だが一昨日、ほどけた靴紐を結ぼうとその場にしゃがんだことで、通行人に紛れ込んだ歩行監視員に捕まり減点をくらった。道の端にさえ寄っていれば歩行条項に抵触しなかったのだが、かぽかぽする靴に条件反射で手を伸ばしたのがいけなかった。俺の場合、歩行免許の備考欄に腰痛有の朱印が押され他の人よりは配慮されるのだが、突然しゃがむのは腰痛にもよくないはず、とお堅い監視員の意見に返す言葉もなく、歩行免許の取り消しは免れたものの、罰則金の支払いと、もともと溜まっていた減点数に応じ、歩行教習所で補習を受ける破目になったのだった。
そして昨日、歩行教習所の教室に集まった四十人ほどの減点者に混じり、まずは三十分の映像を観賞することになった。
映像は実際の事故などに基づき、その経緯や顛末が役者によって再現されていた。
歩きながら新聞を熟読する中年男性が電柱に激突。人が集まり、道の通行が滞る。救急車の赤色灯とサイレン音。そして失明は免れたが入院してしまったというナレーション。
道に唾を吐く男性。唾は横を歩いていた通行人の脚にかかり、殴り合いに発展。パトカーの赤色灯とサイレン音。留置場で頭を冷やすことになったというナレーション。
狭い道を横並びで歩く女性三人。その間を駆け抜ける宅配便の男性。触れた触れないの痴漢騒ぎ。騒ぎは裁判所まで持ち込まれ、裁判長から窘められたというナレーション。
その後も道で危険を招きかねない行為が映し出されていった。横断歩道で信号が青に変わっても気づかない、うわの空や鼻毛抜き。鞄の中の掻きまわし。歩行中の急激な方向転換やふとした立ち止まり。電話の応答や音楽プレーヤー操作時の前方不注意。アングルを道の真ん中で模索する写真撮影。習い事のダンスに関わる予習ステップ。公共の道を我が道と思い定めた威圧歩行。大仰な身振り手振り。歩行先を予測させない千鳥足。などなど。
映像の観賞が終わると、次は指導員二人による実習が始められた。
道という想定で教室の両端から指導員が歩き出し、知り合いであると気づく。会話したい。こんな時にはどのようにするとよい?
指導員が俺を指名し、答えを促した。
「出来るだけ道の端に寄り、他の方の通行を妨げないようにするべきだと思います」
「大変結構です。このような場合、後続者の追突を誘発する危険性を伴いますので、近くに喫茶店などが見当たらなければ、道の端に寄って後続者や対向者に道を譲りましょう」
続いて隣の女性が呼ばれ、歩行教則に則った歩き方で教室の端から端まで歩くことに。
その女性は正しく歩いていたが、指導員の前まできて叫びをあげると急激に反転した。
「いいですか皆さん、これは減点対象となる大変危険な行為ですよ。いまのはオモチャのヘビでしたが、道を歩いていると、いつなんどき目の前に不測物が飛び出してくるか分からないものなのです。ですから、かもしれない、を心がけて歩行しましょう。では皆さんご一緒に。ヘビが飛び出す、かもしれない。犬や猫が飛び出す、かもしれない。自転車やバイクが飛び出す、かもしれない」
席に戻った女性を含め補習を受ける人たち全員で、かもしれない、を復唱した。
「では皆さん、社会人の鑑たる歩行を」
こうして補習は無事に終了した。
だからといって気を抜いていたわけじゃない。俺の減点数はぎりぎりであり、減点数が帳消しになる来月の歩行免許更新日まで、残りの点数はあと一点だけだったのだから。その一点を失えば、歩行特区を通れなくなる。
それは分かりすぎるほど、分かっていた。
それなのに俺は、今朝の出勤時に歩行監視員から歩行免許の取り消しを言い渡されてしまったのだ。不可抗力の、よそ見歩行で。
まさかお堅い印象の歩行監視員の中に身体のラインを強調した服装をする、こんな物凄い美人がいるなんて思いもしなかった。
「あなた、あたしに見惚れていましたよね?」
よそ見歩行を招いてやまなそうなその魅力に、俺は素直に罪を認めるしかなかった。
取り締まりは、日々強化されている。