踊る青信号
俺はその少年に出会うまで、張り合いというものを感じられずにいた。
そもそもなんの因果か知らないが、俺は駅前の横断歩道用の青信号に生まれ変わっていた。紳士然とした人の姿の部分に、である。
おまけに台風並みの先輩風を吹かす赤信号、こいつが気にくわない奴なのだ。こちらの頭上にいるってだけで偉ぶってやがる。青信号の枠のなかで目が覚めた時、初対面の俺に奴はこういった。曰く、私が往来の秩序を定めている。曰く、私を目にする人々は赤色の威光により自らその歩みを止める。曰く、信号の変わり目で見苦しく点滅しないが故に、私の立場は君の上なのである。とかなんとか、たんなる信号の役割をかさに、なんやかやと。
その後もしばしば、先輩台風は猛威をふるい続けた。
やってられるか。こうなったら、もう……。
……で、俺は踊った。幼稚園のお遊戯会でリズム感に見捨てられているという事実を先生からやんわりと、だが懇切丁寧に噛み砕いて突きつけられたこの俺が、踊りに踊った。
生前にテレビで見知っていた阿波踊りでは踊れない阿呆になり、ボックスというステップでは箱に見立てた空間を踏み、コサックではどう頑張っても屈伸運動以上にはなっていないという自覚を自嘲気味に持ちながらも。
でも、それはそれでかまわなかった。
どうせ誰も見ちゃいないのだから。
青信号の役割を果たしてる時は一歩踏み出した姿勢のまま動けないが、頭上で赤信号が自分の威光に酔いしれてる時なら、俺は好き勝手動ける。だから踊ってやった。それはもう、やけくそに。視線なんて意識もせず。
信号を待つ人々は俯くばかりで、なおのこと点灯してない青信号には目を向けようなんてしない。ほんのすこし目をこらせば、たとえ明かりが消えてようが俺の姿は見えるのに。
まあ、それも当然だろう。大概の人は別のなにかに気をとられ、自らの目で確かめもせず、周囲の流れによって信号が青か赤か判断してるようだから。といって自ら確認する人にしても、信号は信号として決まりきっていることに対し、それ以上の視線なんて向けようとはしないものだ。
と思っていたある日の朝、俺は驚きのあまり青信号の枠から路上へ落ちそうになった。
少年と目が合ったのだ。通勤通学時の人混みのなかで周囲の大人に呑まれながら、こちらを凝視している小学生。瞳には少年らしい驚きや輝きはなく、一人前に世の中を敵視でもするような拗ねた冷めたさが宿っていた。
生意気なガキ。だが面白いじゃないか。
この出会いを境にして、俺の踊りはやけくそから笑わせてやるに昇華したのだった。
それからというもの、俺は練習に明け暮れた。最適な時間帯は深夜。深夜は人が通らないので俺は点灯しない。代わりに赤信号の奴が点滅し続けている。そのことで一言いってやろうとも思ったが、やめにした。俺にはやるべきことがある。そして、実際にやってみた。
盆踊り。日本舞踊。社交。ジャズ。ええじゃないか。ヒップホップ。バレエ。ええじゃないか。フラ。タップ。ポール。ええじゃないか。ええじゃないか。ええじゃないか。
記憶の底をさらい、思い出せる限り毎朝踊ってみたが、少年の表情はあくまで硬かった。
俺は我が身を見捨て、どこかで遊んでいるに違いないリズム感を呪い、落ち込んだ。そんな時、赤信号の先輩風が吹きつけた。
「ねえ君、君はいったい、なにをどうしたいのだろう? うまくもないのに、うまくやろうとしてさ。君のことなんてよく知らないが、らしくなく思えて見てられやしない。まあ、君のらしさなんて、どうでもいいけれど。信号の枠にはまるだけではあきたらず、踊りの型にまではまろうとするとはね。なんとも滑稽な話じゃないか。君もそう思うだろう?」
俺は憤りのあまり、もうすこしで紫の信号になるところだった。だが、あまり認めたくはないが、俺はその言葉に火をつけられてしまった。それは蒼い炎となり、俺は踊りを踊りらしく踊るのをやめ、自分にしか出来ないだろう踊りを創作した。
まずは両腕をあげ、くるりくるりと跳ねまわり、上半身だけを青信号の枠内のあちこちに飛ばしてみた。少年は笑わなかった。
ふわふわと漂いながら屈伸し、空気を注入するように屈伸の度に膨らみ続け、おもむろに弾けてみた。少年は笑わなかった。
けれど手応えは感じていた。少年は大人たちの隙間をぬいながら、日毎に信号待ちの集団の前方へと進み出てきていたのだ。
そして今朝、両思いだと知った初恋のような浮かれ騒ぐスキップで青信号の枠内を二回ぐるりと跳ねまわり、三回目に枠の上部で重力の法則に逆らっていることに気づいて落下してみた。
すると驚いたことに、集団の先頭にいた少年の後方から大きな笑い声が響いてきた。笑わない少年と同じ制服を着た同学年らしい少年が、周囲の大人たちの怪訝な表情を気にもせず、俺を指さし楽しげに笑っていたのだ。
その直後、俺は青信号としての役割を果たしながら、予想外の事態に戸惑っていた。
誰も気にしちゃいなかった俺の踊りに目を向ける少年が、まだ他にもいたとは……。
その戸惑いは、午後になっても続いていた。
けれど、いまの俺には自信が漲っている。
なぜなら下校中の少年が横断歩道を渡りきり、初めて振り返ったからだ。その瞳からはあの拗ねた冷たさが消えている。しかも少年は、今朝笑い声を響かせた少年と一緒にいた。
お互い親しげにつつき合い、点滅する俺を急かすような眼差しで見つめ、世の道理に逆らって赤信号に変わるのを待っている。
いいだろう。二人まとめて歩道上で笑い転げさせてやる。これまで拗ねてた少年が、ただのガキになったところで容赦はしない。
少年の笑顔は、これより俺が貰い受ける。