あしたば荘

          あしたば荘
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 あたしは人生につまずき、転んでいました。
“あしたば荘から出てってちょうだいな”
 と、
“絶対に離婚はしない”
 の、ふたつの小さくない石によって。
 あたしは友人に紹介してもらい駆け込み寺のような存在である、あしたば荘に越しました。夫に無断で家を出ましたから、荷物は旅行鞄がひとつ。築年数を知るのが不安なほど古い1階建てで、あたしの住む102号室は六畳一間。風呂なし、トイレ共同。101~104号室まであり、間取りは全室同じ。101号室には大家の七緒さんが住んでいます。
 住めば都と申しますが、女ばかりの都だからか、うまくいかないこともありました。
 越した当日、室順に並んだポストにネームプレートを付け、103号室と104号室へご挨拶に伺った際、両室のどちらともに居留守をつかわれてしまったのです。
 当初は他人とのかかわりを避けているだけだと思っていましたが、日が経つにつれ、そうではないのだと気づかされました。
 104号室の起田さんは廊下でお会いした際、あたしを無視して素通りし道を掃く大家さんと談笑を始めましたし、103号室の八木さんなどは、同じタイミングでドアを開けてしまうことがあると、顔を合わせないよう慌てて引っ込んでしまうのでした。
 あしたば荘の皆さんは似たような境遇でありながら、あたしとのかかわりだけを避けていたのです。固い結束と行動力をもって。
 そして風当たりは、より強くなりました。
“青木さん、あなたは場違いよ”
“ふさわしくない、居てほしくない”
“あしたば荘から出てってちょうだいな”
 こういった言葉が紙に書かれ、ドアの隙間から差し込まれるようになったのです。
 犯人は特定の誰かではなく、大家さんも含めた皆さんの総意だと感じられました。
 人生の大半は、あたしの知らないところで動かされていく。そんなの、もうたくさん。
 思い悩んだあたしは、紹介してくれた友人にきてもらい、すべてを打ち明けました。
「さっきポストを見た時から思ってたんだけど、うまくいかない原因は、あしたば荘で旦那の姓なんて名乗っているからよ」
 そんなことで、と呆気にとられました。
「きちんと離婚が成立してから旧姓を名乗りたいのも分かるけど、ネームプレートぐらい旧姓に戻さなくちゃね。そういう生真面目さが、里美の表情まで重くさせちゃうの。要は気持ちの問題。いつまでも旦那の影にとらわれていたら、陽は射し込まないわよ」
 友人は取り外してきたネームプレートを裏返し、あたしに旧姓を書かせました。
「あなただからこそ、ここでうまく出直せると信じて紹介したんだから。心機一転、胸を張りなさい。大丈夫、笑わなくちゃ」
 その夜は友人とお酒を飲み、泣いて、久々に笑いました。塞いでいた気持ちがほぐれ出し、つまずいた石は、どんどん小さなものに変化していきました。ネームプレートを旧姓に戻しただけで、ここは逃げ場ではなく、新天地なのだと実感が湧いてきたのです。
 どうせ進む人生なら、前を向いていたい。
 そしていま、あたしの人生は好転の兆しを見せています。驚いたことに、あしたば荘の皆さんに受け入れられたのです。なぜだかよく分かりませんが、あたしを追い出そうと結束していた皆さんの意識も変わったのだと思います。挨拶を交わし、おすそ分けを頂き、愚痴や悩みに耳を傾けてもらえるようになりました。皆さん本当に、大切にしてくれます。
“絶対に離婚はしない”
 と豪語していた夫も、渋々ながら離婚の話し合いに応じるようになりました。話し合いの場には、心配だからと皆さんが交代で同席し睨みを効かせてくれます。思い通りにならなければ察しが悪いと罵った挙句に手をあげる夫も、この時ばかりは口だけを動かすようになりました。夫の同僚の方から聞いたのですが、どうしたわけか最近急に会社内での立場が微妙になってしまったのだとか。
「いってきます」
 皆さんに声をかけ、新たな一日の始まりです。これまでのことがまるで嘘のように、「がんばって」と皆さんが声を返してくれます。
 旧姓に戻しただけでこんなにも清々しくなれるのだから、人生とは不思議なものです。
 朝の陽を受け、ポストも輝いています。

  101 七緒 みどり
  102 転堂 里美
  103 八木 静江
  104 起田 昭子

 今日はこれから仕事の面接です。