留守をあずかる
「ふぎゃああああああああああああああああああああああああああああ――」
二十六、二十七、二十八。
「――あああああああああああああああああああああああああああ」
五十三、五十四、五十五、か。
一歳にも満たない娘の気持ちを理解しようと泣き声を書きとめたメモ帳には、気がかりなことに“あ”が五十五も並んでしまった。
居間に置いたベビーベッドのなかで、娘が息を吸う。ペンを握る手に再び力がこもる。
「ふぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
お次は五十八。“あ”が三つ増えたが、多少の誤差なら“あ”の数値が表す娘の気持ちにずれが生じることはない。
妻が友人の見舞いに病院へむかい、娘と二人きりでの留守番という大役を担い、メモ帳を駆使することで発見したのだが、娘は泣き声の長短で気持ちを伝えているようなのだ。
例えば、おむつ。
これまでの“あ”の数値によれば、おむつ取りかえの催促は“あ”が十六から二十三の間で表された。もちろんこの数値がおむつ取りかえを表すと最初から理解していたわけではなく、湿った生温かいおむつに直接触れたことにより結果的に知り得たのだった。
「ふぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
五十三、と。どうやら今回の“あ”は、五十三から五十八の間とみてよさそうだ。
娘はなにを伝えようとしている?
ミルクを欲しがった時の“あ”は、二十八から三十四の間だった。おむつを取りかえ、ミルクを飲んでげっぷをした後は、娘はきゃっきゃとご満悦だったというのに……。
「ふぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
五十四。さあ困った。まさに窮地。娘は火がついたように泣き喚き、窓が割れそうなほど家中でその声が反響している。
「ふぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
五十七。いっそのこと妻に電話してみるか……。いや、だめだ。「どうだった?」「べつに、たいしたことなかったさ」と、いまいち頼りない夫だと思いこんでいる節のある妻が帰宅した時の、これが理想の形なのだから。
「ふぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
五十五。今回の“あ”の数値の高さは、もはや異常といえる。まさか病気? よりによって娘は、インフルエンザやおたふく風邪や急性中耳炎にでも罹ったというのか?
「ふぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
救急車を呼ぼう。そうしよう。……いや、まてまて。まずはそう、熱をはかるべきだ。
が……体温計が見当たらない。妻はどこへやった。使用後は所定の場所にしまえばいいものを、いつも家中かきまわす破目になる。
「ふぎゃあああああああああああああああああああああああああああ、あ、あ、あ…………はあぶ、はぶ。はぶはぶはぶはぶ」
突然、娘が泣きやんだ。これまでの怒号が嘘のように、ごきげんなはぶはぶが聴こえる。
二階の寝室から階段を駆けおり、一目散にベビーベッドへ。するとそこには娘を抱っこしてあやす、近所に君臨する救世主がいた。
「病院から娘が電話してきて、孫の様子をちょっとのぞいてというもんだから。ごめんなさい、勝手にあがらせてもらっちゃって」
「いいえ、いいんですよお義母さん」
「それにしてもあんなにぐずって、元気がいいこと。すごいおねむだったのねえ」
「……へ?」
全身から急激に力が抜けた。五十三から五十八の間の“あ”の数値が、ただ眠るための抱っこを表していたとは……。一生の不覚。
「あらあら、やっぱりパパの方がいいみたい」
娘を受け取り、かるく揺すってやる。
「はぶはぶはぶ、はぶ、はぶ、は……」
瞼はすぐに閉じられ、娘は穏やかな寝顔になった。もうすこし、抱っこしていよう。
義母はどこか羨ましげに微笑んでいる。
ようやく撫でおろした胸の内では、安堵と情けなさが入りまじった嗚咽の“う”が、百を越え上昇を続けていた。この“う”のことだけは、妻には黙っておこう。