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「そらポチ、喉が渇いてたんだろ、水だぞ」
しつこくまとわりついていたチワワから解放され、ようやくソファーに腰をおろす。
テーブルには、三通の手紙。
手紙を見つけた時、それぞれ封筒の封はきられていなかった。一通は娘の部屋、もう一通は冷蔵庫にテープでとめられ、三通目は寝室にある机の抽斗に入っていた。
高校の教科書や参考書が並んだ勉強机に置かれ、その場でざっと眼を通していただけの娘の手紙を、リビングに射しこむ街灯の薄明かりをたよりにあらためて読み返す。
~あたしこの家を出るね。パパはなんにも分かってないし、ママは相手さえしてくれない。どうでもいいんでしょ、あたしのことなんて。だったら、この家にいらないよね。いてもいなくても同じなら、いなくていいはずだもん。だからあたしこの家を出るね。ポチのことお願い。ポチだけは、可愛がってあげてね~
娘は家出をしていた。溜めていたものが弾けた勢いにまかせ、衝動的に手紙を綴ったらしい。走り書きされた手紙は文字が乱れているが、かろうじて読むことはできた。娘は反抗期……なのだろうか。
娘の手紙を封筒に戻すと、ポチがなにかをねだるように、ズボンの裾を前足でかいてきた。そしてキッチンへと駆けていき、収納スペースの扉の前でひと声「ワン」と甘えた。
「そうか、腹もすかしてたのか」
収納スペースからドッグフードを取り出し、適当な食器にあけてやる。ポチは食器を床に置くやいなや、猛然と鼻面を突っこんだ。
ふたたびソファーに腰をおろし、冷蔵庫にとめられていた手紙を取りあげる。
~ごめんなさい。自分を見つめ直す時間をください。わたしは妻であり、母親です。それを忘れたことは一度もありません。でもなにかが、満たされないなにかが、このままじゃいけないと責めてくるのです。外にしか眼を向けないあなたには分からないでしょうが、わたしは責任を転嫁されるだけの妻や、我がままを聞き入れるだけの母親としてではないわたしを、取り戻したいのです~
妻も家出をしていた。文面から察するに、ずいぶん不満を募らせていたらしい。
山盛りだったドッグフードをたいらげ、ポチがこちらにやってくる。じゃれつかれる前にと三通目の手紙を取りあげたものの、ほぼ読み終えたところで飛びつかれた。ポチは私の顔を舐め、腹を見せて寝転がり、尻尾を振って跳ねまわった。おかげで手紙は床に落とされ、小さな足あとにまみれてしまった。
強い酒が飲みたい気分だった。家族が同時に家出。しかもそれぞれが、家を出たのは自分ひとりだけだと思っているのだろう。口中には、すえたような味がひろがっている。
私はソファーから立ちあがり、リビングをあとにした。そろそろと窓をあけ、外気に触れる。静かな夜気が、なんとも心地よい。
寂しげな気配に振り返ると、ポチが尻尾も振らずにこちらを見あげていた。
「どうした、まさか一緒にくるつもりか?」
返事のかわりに、ポチは自らの意思で私の腕のなかに飛びこんできた。
三通目の手紙が、脳裏をよぎる。
~すまない。この家にいると息が詰まってしまう。二人だけのほうが、いつだって幸せそうだ。おれがこの家にいても、自分の居場所は見つからない。おれはその居場所を探しにいくよ。勝手な願いだが、二人とも元気で暮らしてほしい。夫としても、父親としても、おれは失格だよな。申し訳な……~
似た者同士の三人家族だった。
なんだか詰まらないケチがつきそうな気がしてならず、私はポチに手を貸してやりながら、結局なにも盗らずに風呂場の窓を乗り越えた。
ポチだけが、嬉しげに尻尾を振っている。