片づける女
「ちょっと待ってて、すぐ片づけるから」
彼女はおれの耳元で艶かしく囁くと、わずかに開けたドアの隙間に微笑みながら滑りこみ、部屋のなかへと消えていった。
出会ったばかりの、名前も知らない美人。
バーの片隅よりあまく濡れた視線をおくられ、おれは心と腰をスツールから浮かし、会話が弾んだ弾みで彼女のマンションへ。なのにここへきて、おあずけをくらうとは……。
慎重に装っていた落ち着き払った態度はドアが閉まると同時に消し飛んでしまい、おれは浮ついた胸のうちでかるく毒づいた。
「ったく、“ちょっと”と“すぐ”っていうのは、どれくらいなんだ。数秒か、数分か。どちらにせよ、頼むからはやくしてくれ」
おれはドアを突き破りたい衝動を必死に抑えた。気を紛らわせようと歩きまわり、ふと足を止め、手のひらに息を吐きかける。口臭は問題なし。下着もたまたまおろしたて。神さま仏さま、今日という日を感謝します。
十分経った。
彼女はまだ顔を見せない。
おれはドアに耳をあて、なかの様子を探った。忙しなく動きまわる、くぐもった足音がしている。よほど散らかしていたようだ。
それにしても遅い。待てば海路の日和ありとかいうが、冗談じゃない。おれはとっくに錨をあげ、先走って帆まで張っている。準備は万端。いますぐ出航させてほしい。
二十分経った。
爪が割れた。
人間であるこのおれが、部屋に入れてほしがる犬や猫にあやかろうとしたのが間違いだった。がりがりと引っかいた爪あとすら、ドアには残されていない。ましてや、彼女が気づいた気配すらなかった。
部屋のなかでは、ビニールのこすれる音がしている。おそらくゴミ袋に散らかしたものを詰めこんでいるのだろう。
二十三分経った。
もう待ってなどいられない。どれだけ部屋が汚れていようが関係ない。この際ベッドのうえだけ片づいていれば、それでいい。
だがおれは、ドアとそれ以上のものを壊しかねない衝動をかろうじてなだめ、断ちきれそうな理性の綱をなんとか渡り、努めてかるくドアをノックした。が、なんの反応もないまま、ただ焦らすように、がさごそとした音だけが途切れずにもれてくるだけだった。
もはや限界に近づいたおれは、ドアノブを右手が勝手にまわすのを止められなかった。
ちくりとするうしろめたさの棘を胸に刺したまま、さりげない第一声の言葉にあれこれ迷いつつ、おれは細めにドアを開けた。
そこで、予期せぬものを見てしまった。
玄関に、男ものの靴。
天国から地獄。
嫌な予感が、膨れた夢を萎えさせる。
これは……まさか美人局?
おれは背後を振り返り、非常階段の場所を確認した。逃げ足だけには自信がある。
そもそもおれみたいに冴えない男が、彼女のような美人と一夜を過ごせると思ったのが間違いだったのか。しかし美人局だとしてもドアに鍵もかけず、これほど待たせるものだろうか……。
さらにドアを開け、部屋の奥を覗きこむ。
おれはほっとして、胸をなでおろした。
やはり彼女は美人局などするような、そんな類の女性ではなかったのだ。
彼女はいまだ、片づけの最中だった。
思わず声をかけそうになったが、あやうく言葉を呑みこんだ。声をかけてしまえば、片づけをする彼女の邪魔になる。それだけはしたくなかった。彼女との一夜を諦めてでも、それだけは決して。
どうぞ心ゆくまで、片づけていてほしい。
おれは音もたてず、そっとドアを閉めた。
さようなら、名前も知らない美人さん。
いまは一刻もはやく家に帰り、ただただ眠りたかった。すべてを忘れるために。だが今夜は、いやな夢にうなされてしまいそうだ。
靴の持ち主らしい男をばらしながら、脇目も振らず、淡々と片づけている彼女の姿を見てしまったばかりに……。