どこにでもある光景
少年は瞳を輝かせ、祖父を見あげた。
「ほうら、お土産だぞ。これ、なんだか知ってるかな?」
小さな手に乗せられたものに心を奪われたまま、少年は大きく首を振った。
「これは知恵の輪といってな、絶対にはずせないように思えるこのふたつの輪を、うまいこと知恵を使ってはずしてみよう、っていうオモチャなんだ。思い出すなあ、わしがまだ子供の頃にな、近所に知恵の輪が得意なおにいさんが――」
祖父が咲かせたがった懐古の花には気づきもせず、少年は知恵の輪に挑みかかった。
ふたつの輪を、引っ張ってみる。
ふたつの輪を、振りまわしてみる。
ふたつの輪を、こすり合わせてみる。
少年の手のなかでは、カチャカチャと忙しない金属音だけが鳴っていた。
「おじいちゃん、これほんとにはずせるの?」
「ああ、はずせるとも、ちゃんとな。でもまあ、おまえさんには、すこしばかり早すぎたかも知れないな」
そういうと祖父は、貫禄を足音で響かせながら着替えのために自室にむかった。
居間に残された少年はひとり、知恵の輪と渡り合った。だが戦況はままならず、講じる手段のことごとくは、あっさりとかわされ続けた。点けっぱなしのテレビはアニメを流し続け、仲違いをしていたはずのクマとアヒルが、いつしかひとつの林檎を分け合うまでになっていた。
「おや、まだはずせていなかったのか。仕方がないなあ。ほうら、どれどれ、ちょっとかしてごらん。ここはひとつ、わしがお手本を見せてやるとしよう」
少年が見慣れたいつもの室内着姿でようやく居間に戻ってきた祖父は、さっそうと知恵の輪と対峙した。
「いいかい知恵の輪っていうものはな、ただ引っ張っても、ただ振りまわしても、ただこすり合わせても、はずせやしないんだよ。きちんと頭を働かせ、そうして生まれた知恵を使わなくちゃだめなんだ。知恵の輪をはずすための大事なポイントは、まさにそこなんだよ」
まばゆい威光に寄り添いながら、少年は祖父の手元をじっと見守った。
そのまま、五分が過ぎた。
「ねえ、おじいちゃん。あの――」
「これこれ、よく聞きなさい。世の中ってやつにはな、ままならないことも多いんだ。そんな時、無闇にあせったり、やたらとせっついてみたりしても、どうにかなるもんじゃない。物事の解決にはな、然るべき時間が必要なんだ。子供には分からないだろうが、ここはわしに任せておきなさい、いいね?」
「うん」
十分が過ぎた。
「ねえ、おじいちゃ――」
「ああああっ、いいから黙ってなさい。わしの邪魔はしないでくれ。まったく、おまえさんは忍耐って言葉を知ってるか? なに、知らない? 忍耐とは、我慢することだ。いいか、わしはいまな、もうすこしではずせるところだったんだぞ。おまえさんが横からしゃしゃり出てこなければ、ちゃんとはずせていたんだ。ああ、間違いなくな。しかし道は断たれ、また初めからやり直しとなってしまった。これ以上、余計な口を挟むんじゃないぞ」
「う、うん。ごめんなさい」
やがて、三十分が過ぎた。
「ね――」
「ここがこうで、これがこっちにまわり込んだら……ああっ、くそ。うん? 待てよ、おおっ、そうか。こっちをこうすべらせ、これを若干引き気味にすれば……ちっ、ちっ、ちっ。……ふんんんん、ふんんんん」
「ね、ねえ、おじいちゃん」
「ち、ち、ち、知恵の輪め。め、め、め、目障りな。な、な、な、成せばなる。る、る、る……る、る、る。るん、るん、るん、あ、るん、るん、るん。ん、ん、ん。んんんんん……んんんんん……んんんんん」
「おっ、おじいちゃん、もうやめようよ。それでさ、また明日やろうよ。ねっ、そうしよう、おじいちゃん」
「んんん、んんん…………んっ」
「おじい、ちゃん」
「ほら、どうだい。ははは。見事にはずしてやったぞ。ははは。知恵の輪なんてオモチャはな、わしにかかれば赤子の手をねじるようなもんさ。はははは、わはははは」
祖父はテレビの前にどかりと座り、少年に背をむけた。一言の断りもなく、チャンネルはニュース番組にかえられた。
畳に投げ出された知恵の輪を拾いあげると、少年は思わず呟いた。
「なあんだ、知恵の輪っておもしろくもなんともないや。でも、なんだろう。なんだか、こんなんじゃないような気がする」
知恵の輪はいびつにねじ曲げられ、強引な力ではずされていた。少年の小さな手に乗った知恵の輪は、元には戻せそうにない、使いみちを失った、ただの金属の骸と化していた。
祖父はテレビにむかい、さもありなんと頷きを繰り返している。
ニュース番組では、世界情勢を取りあげているところだった。