カラスばば

          カラスばば
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 数年振りに実家へ帰る道すがら、はるか頭上をカラスが一羽、喚きながらぼくを追い抜いて飛び去って行った。
 遠ざかる啼き声に揺り起こされ、子供の頃の記憶が眼を覚ます。
「なんとかして下さいって、直接話した方がいいのかしら。あなた、どう思います?」
 仕事から帰宅した親父に、母が意見を求める。親父は「よせよせ」と取り合おうともせずに、素っ気なく風呂へ直行してしまう。昔から親父は、自分以外のことに無関心な一方通行の人であった。
 母が持ち出した話題の主は、ぼくら子供たちの間でカラスばばと呼ばれていた、高台にある石塀に囲まれた家に夫婦だけでひっそりと暮らす老婆のことだった。カラスばばは魔女かも知れない、そんな噂まで囁かれた。なぜかといえば、朝や夕方になるとカラスばばの家にカラスの群れが集まっていたからだ。
 ぼくや友人たちは小学校の登校時や下校時に、カラスばばの家の上空を渦巻くように旋回し、けたたましく騒ぐカラスの群れを遠くから見上げては足を速めたものだった。
 ぼくら子供は子供なりに、母や近所のおばさんたち大人は大人なりに、カラスばばを気味悪がって怖れていた。
「魔女かどうか、正体を暴いてやろうぜ」
 誰がいい出したものやら、ぼくは子供なりの冒険心を焚きつけられ、友人たちとカラスばばの家を探りに行くことになった。
 放課後、ぼくらはカラスばばの家の裏山に登り、木陰からそっと様子をうかがい、眼の前の異様な光景に言葉をなくした。
 庭一面にカラスがあふれ、真っ黒になっていたのだ。カラスたちは互いを牽制しときに浅ましく争い、うねり、蠢き、カラスばばが撒くものを必死になって啄ばんでいた。
 ぼくらは正体を暴くことなど忘れ、逃げるように家に帰った。ぼくはパンツを濡らさずよかったと安堵しながら、夕飯の仕度をしていた母に冒険譚を語った。カラスばばがカラスに餌を与えていたこと。餌を撒くカラスばばが穏やかに微笑んでいたこと、などなど。
 ぼくは解決策を見出そうと、餌やりをやめてもらうよう、本人じゃなくカラスばばの旦那にいったらどうかと提案した。
「それだけはよしなさい。あそこの御主人にだけは、いっちゃいけません」
 母はそういって口を噤んでしまった。子供ながら、ぼくにも母の考えは理解できた。カラスばばの旦那はカラスばば以上に問題の多い人であり、腫れ物とかげで呼ばれて町内では見て見ぬ振りをされていた。そんな旦那に苦情を持ちこんだらカラスばばがどうなるかと、母はそれを心配していたのだ。
 だが、それから数日が過ぎたあたりで、状況は一変した。カラスばばが餌やりをやめ、カラスを追い払うようになったというのだ。
 ぼくらは性懲りもなく、自分たちで確かめようと前回よりすこし後ろの木陰に潜んだ。
 カラスばばは餌のバケツを箒に持ちかえ、またがりもせずに、振りかぶりながら庭を走りまわっていた。その姿は魔女ではなく、ただの老婆にすぎなかった。がっくりと拍子抜けした顔を見合わせ、裏切りに驚いて啼きわめくカラスを追い払うカラスばばのしわがれ声を聞きながら、つまらなくなったぼくらは別の冒険を求めてその場を立ち去った。
 さらに日々が過ぎて行くにつれ、カラスばばの家に群がるカラスはいなくなり、ぼくらや近所のおばさんたちは興味を失った。
 また一羽、カラスがぼくを追い抜いた。
 さらに埋もれていた記憶が眼を覚ます。
 周囲の人たちが興味を失った後も、母だけはカラスばばの家を時おり眺めていた。ぼくが声をかけても生返事しか返ってこなかったけれど、一度だけ、こんなことを呟いた。
「どうしたのかしら、御主人。最近見かけなくなったけど、なにかあったのかしら……」
 またもや、カラスがぼくを追い抜いた。
 今度は単体ではなく、群れだった。
 不安が、ぼくの心をつかんで離そうとしない。カラスばばの家にカラスが群れ集いはじめたすこし前から、ぼくには旦那を見た記憶がなかった。もちろん、その後もずっと……。なんの確証もないまま、両親と頻繁に連絡を取り合ってさえいれば、と自責の念までおそってきた。
 ぼくはカラスの群れを追いかけ、走った。急ぎ向かう先は、どうやら一緒らしい。
 親父の顔を見るまでは、ぼくの不安は拭い去れそうにない。