思い出せぬ友人の名

       思い出せぬ友人の名
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 夕刻の六時過ぎ、晩酌をしながらニュース番組を見ていると、なにげなく小学生時代の友人の顔が頭に浮かんだ。が、名前までは思い出す事ができず、かえって気になって仕方がない。
 そういえば授業中、彼は申し訳なさそうに挙手をしてトイレに行く事が多かった。つまらない野次が飛び交うなかを、ぺこぺこと小刻みに頭を下げ続けて後ずさり、我々に背を向けようとせずに教室から出て行く。そんな様子から、たしか妙なあだ名を付けられていたはずだった。
 まずはあだ名の方が思い出しやすかろうと、もやもやとした記憶を辿るなか、ニュース番組の方では、どこかの水族館からリポーターが中継をしていた。
 ……水族館……海の生物……後ずさる彼の姿。徐々にほどけ始めた記憶の中での彼は、どれもこれも後ろへと進んでいる。体育の授業でおこなった後ろ向きに走る徒競争のときも一番であったし、やたらと陰険に怒鳴る事で有名な爺さんに見つかった下校中のときなどは、いま来た道を歩度を増しながら正確な足取りで一目散に逃げて行ってしまった。なぜだか彼は、前に進んで行くよりも、後ろに進んで行く事にたけていたようである。そんな彼を、うまく言い表していたあだ名とは……。
 もう少し、あと少しで思い出せそうな手応えを感じる。私は勢いにのり、新たに開けたビールをひと息に飲み干す。しびれる刺激に酔いしれて、水族館の水槽の中を後ずさりながら泳いでいる彼のイメージが拡がる。それはまるで、天敵であるタコから逃げる伊勢エビのようであった。
 ……そうか、そうだった。よりにもよって彼は、伊勢エビなんてあだ名を付けられていたのだった。クラスの誰かが呼び始めてから、それもそうだと思われてなんの違和感もなく定着したのだ。
 伊勢エビなんて妙なあだ名であるが、ようやく思い出す事ができた。なかなか順調ではないか。後は肝心の彼の名前だ。そこで、さらに弾みを付けてしまおうとビールから日本酒へと切り替えて、私はちびりちびりとやりだした。
 一方、つけっ放しのニュース番組では、不審車を追跡するパトカーの映像が放送されていた。どうやら不審車は検問を目前にして不意に逃げ出したらしく、不覚にも酒を飲む手が止まってしまった私は、マンションの上階から偶然撮影されたとかいう映像に見入ってしまった。
 マンションの住人が喚声をあげるなか、赤信号のまま交差点に進入するかに見えた不審車は、急激にハンドルを切ると歩道に入り込んだ。感心している場合ではないが、なんとも巧みなハンドルさばきである。しかし、そのまま逃げきるのかと思われた不審車は、歩道沿いの住人が我が物顔で置き並べていた植木鉢の群れに乗り上げてバランスを失うと、そのままガードレールに激突して停止した。
 そこで画面は切り替わり、メインキャスターが改めて経緯を語りだした。
 ……よくもまあ、あんな無茶な運転をするものである。不審車を運転していた人物は、本気で逃げ切れる自信があったのだろうか。再び酒を飲みながらそんな事を思ったが、それよりも肝心の彼の名前は何であったのかと記憶の糸を手繰ってみる。けれども手応えは感じられず、一向にその兆しすら見えてこない。
彼にはとても悪い気がするのだが、もうあきらめてしまおうか……。酒のせいか頭はぼんやりしてきているし、ずいぶんと古い友人でもある事だし……。いくら考えてみても、無理なものは無理なのではないだろうか。それに、忘れた頃に思い出すというのも、よくある話じゃあないか……。
 手前勝手に開き直ってニュース番組を見てみると、逃走する不審車の映像が再度流れていた。
 それもそうだろう。検問からバックの走行で逃走し、パトカーの追跡中に事故ったのだから珍しいに違いない。私だって目に焼きついて離れやしない。なんと言ってもバックの走行である。方向転換して前進するよりも、後進する事を選択した不審車の運転手……。
 ものすごく嫌な予感をおぼえた私は、食い入るようにテレビを凝視した。彼の顔から出発し、なんとかあだ名まで漕ぎ着けたものの、私の不甲斐なさで辿り着けなかった彼の名前。その彼の名前がいま、無謀な事故を引き起こした人物として、ニュース番組から伝えられてきているのだった。
 ……なんともはや、彼は昔とちっとも変わっていなかったようである。