車縛霊
友人の知人から買い取った車には、口喧しく鬱陶しい幽霊がとり憑いていた。
走行距離は三万キロ弱。クラッチは滑らず、エンジンに雑音も混じらない。七年を経たスポーツタイプの国産ものだが、塗装には錆びひとつ浮いていない。
手入れの行き届いた車。
「車を手放したい、って人がいるんだけど」
友人からもちかけられた話に、車を乗りかえようと考えていた矢先の俺も、当初は乗る気なんてなかった。値段は末広がりだかの理由で八万円。安すぎる。当然、疑問が湧いた。もしや事故車か。それとも、改造に改造を重ねたガタガタのボロ車だろうか。
けれども、そんな疑問はこの車を見るなり吹き飛んでしまった。
新車同様とはいえないまでも、事故や改造の痕跡は見当たらず、バンパーにかすり傷やへこみもなく、ホイールは輝いていた。こんなに状態の優れた車を手放すなんて、もったいない。
なにか裏がありそうな気がした。だが、
「いい車だよなあ、お前どうするよ」
知人宅へ案内してくれた友人のもの欲しそうな呟きに、くわえた煙草を落とすほどあせり煽られた俺は、その場で手を打ち、車購入の話に乗ってしまったのだった。
いらないおまけの存在を、知りようもないままに……。
「なあ、おっさん。ふつう幽霊っていったらさ、見通しの悪いカーブとか、トンネルの出入り口だとか、そういう特定の場所に憑いたりするもんじゃないのかよ」
俺は助手席に居座る幽霊とともに、法定速度を遵守しながら路上を走行していた。
「あなたが仰っているのは、地縛霊でしょう。特定の場所に想いを残し、その想いゆえに、その場を動けず離れられない、とかいう。まあそうですね、想いを残すという観点から申せば、私の場合この車がそれにあたります、はい。そうだ、私のことを車縛霊とでも命名いたしますか。そう呼んでくださって結構ですよ、ええ」
「しゃばくれい? いちいち面倒くさいな、おっさんで充分だろ」
「それならそれで、ご随意に。ああ、次はあの交差点を右折してください」
まったく、なにからなにまで面倒くさい。
安く手に入れた車に幽霊がとり憑いているのも困るが、その幽霊が大切な車を委ねられるかどうかドライバーとしての適正を判断させろといい出したのには、ほとほと参った。
「対向車によく注意してくださいね。ゆっくり走行しているように見えて、スピードは意外と出ているものですよ」
運転免許を取得してから十年あまり。いまさら路上教習をやり直すはめになるとは……。しかも、指導するのは緑色のブレザーを着込んだ幽霊ときている。
「はいはい、交差点での右折は大変上手に出来ました。おや、前方に路上駐車している車がいますね。なんと、運転席には人が乗っています。このような場合、どういった危険を予測しておけばよいのでしょう。お答えください」
「え~、運転席に人がいるってことは降りる可能性があるってわけで、だからドアが急に開くかも知れないから注意が必要、と。これでいいか、おっさん?」
「結構、結構」
「なあ、もう気は済んだんじゃないのかよ。こんなこと始めてから一週間以上経ってるんだからさ、約束通りさっさと成仏してくれよ」
「あなたには、ローンも組まずに一括購入した愛車となるべき車のハンドルを一度も握れないまま、病室でもだえにもだえて息を引き取った私の悔しい気持ちが、お分かりになりますか。ええ、どうなのです?」
迫りくるおっさんに俺はなにもいえず、ただただ前方を見据えた。さすが幽霊。怨みを込めた眼力には、身も凍る凄みがある。
「お察しください。生前、自動車教習所でドライバーの卵たちを指導する立場にあった私からすれば、この車を委ねられる相手を見極めるには、こうするしかないのですから」
「でもさ、元々の所有者だからって六年の間になん十人も人の手を渡り歩かせるってのは、どうなのよ」
「嘆かわしい限りですな、満足の行く結果に至る人物が現れないというのも。ほら、前の車をごらんなさい。黄信号は急いでアクセルを踏み込ませるためのものではなく、余裕をもって停止させるためのものなのですよ。それをあのドライバー、急激にスピードを上げるだなんて、危ない危ない。私はあのような輩に、我が車を委ねようとは思いませんな」
俺は最初からそうするつもりであった風を装い、体にシートベルトを食い込ますこともなく、なんとかブレーキをかけ停止させた。
「ほう、感心感心。停止線もオーバーしておりませんね」
おっさんは閉め切った窓から首を突き出してしきりに頷くと、バインダーに閉じてあった用紙に俺の評価を書き込んだ。
「さて、今日のところはお宅へ戻ることにしましょうか。集中力も切れる頃合でしょうしね。それにしても、こうして助手席において安らげさえするのは、あなたが初めてかも知れませんねえ。この調子で、これからもよろしくお願いしますよ」
俺は確かな手応えを感じていた。一時停止の一時に時間をかけ過ぎて後続車にクラクションを鳴らされようが、法定速度を遵守した挙句に苛立つパッシングとともに追い越して行くドライバーから睨まれようが、かまわずにきた甲斐があった。
それもこれも、すべてはこの車を晴れて自分のものとするためだ。集中に集中を重ね、これまでの十年間で埋もれてしまった教習所での記憶を掘り起こし、一瞬も気を抜かずに、俺は口喧しい幽霊の試練に耐えてきたのだ。
そうして二週間が過ぎたある日、ついにその時がやってきた。
「さすがに、自宅への駐車は手馴れたものですね。お疲れさまでした」
俺は緊張の糸を解き、安堵の息をもらした。
「本当に、お疲れさま。そして、いままで誠に申しわけありませんでした。私の気は、本日をもちまして充分に済みましたよ」
「……それじゃ、おっさん」
「はい。あなたの運転は合格です」
ハンドルにかけていた手が滑り落ち、俺はシートに深く身を沈め、天井を見上げた。
「この車を、くれぐれも大切に扱ってやってください。よろしくお願いいたしますよ」
「……ああ」
「最後にひとこと、ありがとう」
その言葉を残し、おっさんはふっと消えてしまった。
これで終わりだ。やっと、解放される。
俺は心地よい疲労感に浸りながら、緊張から吸う暇さえなかった煙草に火をつけ、深々と味わい、長々と煙を吐き出した。すると、
「ああ、あなた、それはいけません。なんて無体で非道な行いだ。車内で喫煙など、もってのほかですよ。我が車にヤニ臭さが染みついたら、どうするのです。情けない。ほんのわずかでも眼を離すとこれですから……。とても残念でなりませんなあ。あなたは素行に問題あり、ですねえ」
おっさんは、したり顔で笑みを噛み殺しながら戻ってきた。
この車が末広がりの八万円だと? 八方ふさがりの間違えじゃないのかよ。
以後、俺が新たな買い手を見つけ出すまで、エンジンがかかることはなかった。