傍線
「ちょっと、なんなんだよ、これ」
彼はホラー小説に魅了され、ぐいぐい引きこまれていた。その小説は実在の地名や建物の名称などを多用し、身近に潜んでいそうな闇を描いている。そして凶行の舞台となっているのは、彼が実際に住む地域であった。
しかし、人の命を求めて徘徊する正体不明の殺人鬼エムが第三の獲物に狙いをつけたところで、小説世界に釘付けにされていた彼から、釘を引き抜いてしまう汚点が現れた。
「図書館で借りるとこれだもんな」
その汚点とは、傍線の跡だった。
第三の獲物の行動“真夜中すぎ、ひと気のない商店街を通り抜けた男は、待つ者のないアパートへ足早に帰りつき”のくだりに、はっきりと傍線の跡が見てとれた。傍線自体は図書館職員により消されているが、筆圧で刻まれた溝だけは消し去れずに残されていた。
「でも、ホラー小説だろ。参考書の類じゃないんだし、わざわざ線なんて引く必要あるのか? ったく、やめてくれよな、興醒めじゃないか」
と、いいつつ、何もなかった振りで小さな溝を跨いでしまえない性質の彼は、物語の流れを把握しないよう気をつけ、パラパラとページを捲って行った。おそらく一匹見たら数十匹はいるというゴキブリのように、読み進めるたびにワラワラと傍線が現れるに違いない。ならばこれ以上気がそがれないよう、免疫をつけておくにこしたことはないのだ。
「ほら、やっぱりあった。なになに『夜食に用意したカップ麺が冷めるのも厭わずに、男は憑かれたように本を読み』か」
そういえば俺もそうだったなと、ふと思い出した彼は、いやな偶然の一致に眉をひそめてしばし見つめたあと、箸をつけていなかったカップ麺を食べた。
「それから、と『アパート前の道路を急加速した車が唸りを上げて』」
彼が読みあげるやいなや、傍線の引かれていた文章をなぞるように、深夜だというのに騒音を振りまき部屋の前を車が走り去った。彼は驚きのあまりビクッとなった拍子にテーブルの裏側に膝を打ちつけ、カップ麺の容器や筆記具やリモコンを巻き添えにしてテーブルを引っくり返した。
「なんだよ、気味が悪いな」
細めに開けていた窓を通して流れこむ排気ガスが、うっすらと部屋の中を漂っている。
「……お次は『薄手のカーテンが風に揺れ、張り出し窓のスペースに置かれていた卓上カレンダーが乾いた音を立てて』」
パタッと倒れた。
「なんなんだよもう、やめてくれって」
必要以上に勢いをつけてぴしゃりと窓が閉められ、しっかりと鍵までかけられた。ページを捲る手に、微かな震えが生じている。
「ええと今度は『電信柱の陰より進み出たエムの顔に、醜い笑みが浮かぶ。獲物に残された時間はわずかしかない。エムはその時間までも刻んで奪うように、己を誇示する足音を刻々と路上に打ち緩慢に静寂を侵して』」
彼は耳をそばだてた。アスファルトを重く踏みつける靴音が、部屋の中まで響いてくる。
「おいおい、嘘だろ。ただの偶然だよな」
足音は決められていたルートを進むようになんの躊躇もなく、カツン、カツン、と安普請の鉄階段をのぼり始めた。
「エムに狙われた第三の獲物の人物像はたしか、六畳一間のアパートに一人暮らしで容姿は冴えず、競馬と読書とコンビニ新商品のカップ麺の味比べが趣味で、最近は図書館の貸し出しカウンターの女性職員にさり気なく誘いをかけようと画策してる、だったよな」
ページが折れ曲がるのもかまわず、人物像が描かれている箇所を探し出し、急きこんで確認した。
「これって、やっぱり俺のことか。いやいや、そんなはずはない。容姿に関しては当てはまっちゃいないから……俺じゃないはず」
ささやかな彼の希望をいとも易く打ち砕くように、足音は止まる気配などこれっぽっちも感じさせずに階段をのぼりきり、部屋の前へと進んできた。
「……そんな、馬鹿な」
彼はこの先どうなってしまうのかと、再び傍線の跡を探し始めた。
「『施錠された玄関ドアのノブを乱暴にまわし』」
ガチャ、ガチャ、ガチャ。
「『弾みをつけ、体ごと何度も激しくドアにぶつかり』って、くそっ」
ドシッ、ドシッ、ドシッ。
ドアは内側に歪み、金具がガタガタとゆるむ。あと数度の体当たりで破られてしまいそうだ。
「ちょっと待ってくれって。なんとかしなきゃ、なんとか……」
数行先に傍線が引かれていた文章はこうなっている“躍りこんだエムの手にしたアーミーナイフの切っ先は、獲物に助けを求める声をあげる隙も与えず、速やかに心臓へ達し”と。
「なんだよ、おいっ。ええ、くそっ。まだだ、まだ間に合うだろ、まだなんとか」
彼は第三の獲物が犠牲になるくだりを飛び過ぎ、物語の終盤をグシャグシャにし、結末を引き裂いてページを捲った。残る紙数はあと数枚。ほんの三ページほどで既刊本の宣伝文に行きついてしまう。
「こ、これだっ! これしかない」
床に転がるボールペンを手にした瞬間ドアが破られ、荒々しい足音が背後に迫った。
「これで、どうだっ!」
彼はホラー小説に手を走らせると、祈るように身を伏せた。
…………。
それから数十秒が過ぎ、瞼を固く閉じていた彼の耳にも、ようやく静寂が押し寄せた。
「助かった、のか……」
背後に感じた重苦しい殺意と正体不明の存在は、まるで何事も起こらなかったかのように消えてしまっている。
だが、ドアは見るも無残に破られて倒れ、床に残された靴跡は彼まであと一歩のところへと迫っていた。
「……終わったんだよな」
ゆっくりと深く息を吸いこみながら、彼はしげしげとホラー小説を見つめた。
「この本、返却は無理だろうな。破れたページもかなりあるし、ボールペンで線まで引いちゃったし……。間違いなく弁償だな」
彼が見つめるホラー小説の物語が結末をむかえた次のページには、彼みずからが書き殴った傍線が黒々と引かれていた。
そこには、こんな文章があった。
“この作品はフィクションです”と。