ゴロゴロ

           ゴロゴロ
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 売り言葉に買い言葉ってやつほど、怖ろしいものはない。いまさらながら、それを痛感している。
 一年前になるが、休日のたびに妻とつまらぬ言い争いをしていた俺は、つい余計な口を滑らせてしまった。
「ねえ、ゴロゴロばかりしてないで、どこかへ連れてってちょうだいよ」
「うるさいな、疲れてるんだ。あっち行け」
「いっつもそうね、ゴロゴロゴロゴロ」
「休日はな、ゴロゴロデーなんだ」
「そんなにゴロゴロするのが好きなら、一生ゴロゴロしてなさいよ」
「おお、いいとも。ずっとゴロゴロしてやるさ」
 始まりはこんなもの。以来、ずっとゴロゴロしている。俺も意固地な妻の前でのみ、ゴロゴロしていればよかったとは思っている。
 けれど、しゃくに障るじゃないか。妻の目を盗んで歩いてしまうなんて。だから、通常どおり会社へも行った。ゴロゴロ転がりながら。電車内では好奇な視線を避けて床だけを見つめ、駅の階段も時間をかけてのぼった。なに、危険なのは階段をくだる時だけだ。
 それにしても、引き時ってやつをつかまえるのは意外と難しいものだな。
「ねえ、傷薬っていくらすると思うの? 包帯代だってばかにならないのよ」
 傷の手当てをしてくれた妻に「じゃあ、やめるよ」と、言ってしまえば済んだのだろう。でも俺は、
「そうか。今度からはツバでもつけとくよ」
 としか、言えなかった。
 おかげでゴロゴロ生活から身を引く機会はどんどん離れ、遠くかすんでしまった。
「おい、足元に気をつけろ」
「ちょっと、覗かないでよ、この変態」
「ガルルルゥゥウ、ワンワンワン」
 三ヶ月も経てば、罵声や吠え声にも慣れてしまえる。ただ、聞き流せばいいのだ。だが、聞き流せないことを言い出すやつが現れた。
「師匠、お待ちください、師匠」
 俺は思わず足を……いや、身体を止めて、俺と同じ高さからかけられた声の方へ、こわごわ振り向いた。
「僕を弟子にしてください」
 後悔先に立たずって、あれは本当だな。振り向かずに無視すればよかった。俺はゴロゴロしている青年との立ち話に……いやいや、ゴロ話に引きずり込まれた。
「あなたのゴロゴロ解放運動に感銘を受けました。人は人としてのしがらみを自ら解き放った時、まことの姿を見せるものなのですね」
 当然、俺には理解不能だった。訳が分からない。解放運動? まことの姿? なんだそれ。妻の手前、引っ込みがつかないだけさ。
 それが言えなかった。本当の理由を知ろうともせずに、ゴロゴロの意味を創り上げている純粋ゆえに鋭利な眼差しを持つ青年に気おされ、俺は完全に呑まれてしまった。
「おはようございます」
 それから青年はアパートの前で俺を出迎え会社まで同行し、
「お疲れ様でした」
 退社時刻になるとどこからかやってきて、帰宅路まで共にするようになった。
 一人増えると、二人、三人、五人と人数が増えて行くのに時間はかからず、その後も増え続けた。ゴロゴロに共感を覚える人達の多さには驚いた。しかも、この頃から新聞や雑誌の取材が舞い込み始め、青年が窓口となり熱弁をふるう横で、俺は黙して語らぬ孤高の存在として祭り上げられてしまった。そして集団が組織化されると、俺も立場的に『ゴロ祖様』なんて呼ばれ、不思議と生活までが潤い出した。それもこれも、青年の熱意と手腕によるものなのだが……。
「ねえ、あなた。あたしもやった方がいいのかしら、ゴロゴロ」
「なんでお前が?」
「あたしにも立場があるじゃない、あなたの妻としての」
「勘弁してくれよ、お前まで。いいか俺はな、いいかげん止めたいんだよ。なにがしがらみからの解放だ。俺の方が、よっぽどゴロゴロから解放されたいよ」
「あなたはどうしていつも、そうやって自分勝手なのよ。いいわ、決めた。明日からあたし、ゴロゴロさせていただきます」
「おいおい」
「だって、ゴロゴロのおかげでアパートを引き払ってマンションに入居出来たんだし、会社をクビにされても何かと食べて行けるんじゃないのよ。ねえ、違う?」
 たしかに妻の言うとおりだった。俺が皆の前でゴロゴロしていれば、方々から金が転がり込んでくるのだ。
 もう自分の意思だけでは、ゴロゴロから身を引けやしない。妻までが、その気になってしまったのだから。
 そんなこんなで俺はいま、「ゴロゴロで日本一を制覇しましょう」との青年の発案でなかば強制的に、ゴロゴロと富士山頂までやってきていた。空気は思ったより埃っぽいが、テレビ取材も兼ねているため、嫌な顔ひとつ出来やしない。これでまた、知名度が上がるらしいのだ。
 それじゃ、そろそろ休憩は終わりとしますか。
 俺はこれより、富士山からの下山を試みなければならない。命を賭けた、とんでもなくスリリングなゴロゴロで……。
 まったく、人生なんてどう転がるか分かったものじゃないな。
 …………。
 おりゃあっっっ!