タクシー
タバコを揉み消して乗車し、男が行き先を告げると、タクシーは滑らかに発車した。
「お客さん、こんな時間にあんな場所に行こうだなんて、ずいぶんもの好きな方ですねえ。それとも、よほどの用事がおありですか」
運転手は職業的に人当たりのいい声でもって、男に話しかけた。男を乗せた駅から二十キロも離れた高台にある展望台。その展望台へと続く坂道の中ほどにある待避所が行き先となれば、いったいどのような客なのかと探りを入れたくもなる。しかも時刻は、夜の十時だった。
「……ちょっとした仕事で」
男はかたわらに置いたバッグに手をのせ、窓の外を眺めたままぞんざいに呟く。
「へえ、仕事ですか。そりゃあ、夜遅くにご苦労さんですなあ。するとなんですか、夜景かなにかを撮りにでも行かれるんで」
単調に流れる暗い町並みに飽きたのか、男はバックミラー越しに運転手を見ると、問いかけるように片方の眉を上げた。
「いやなに、以前にもそういった方を乗せましたもんでね。ぶしつけながら、お客さんもカメラをバッグに入れてるんじゃないかと思いまして」
親しげな厚かましい詮索から身をかわすように、男はバッグから手を離すと所在なげに膝頭の上を這わせた。
「すいませんが、あとどれくらいで着きますかね」
「そうですね、二十分から三十分あたりってとこでしょうか」
再度、窓の外を眺めにかかるもすでに興味は失われ、男は仕方なさそうに溜め息をついて前をむいた。運転手を相手にせず黙り続けるにしても、間がもちそうになかったのだ。
そんな好機を逃すはずがない運転手は、あくまでも世間話の延長といった軽妙さで一歩も二歩も踏みこんだ。
「お持ちなんでしょう、カメラ。やはり、夜景ですか」
「ええ、まあ。でも、現場付近の記録用とでもいうか」
「ほう、現場、といいますと」
「去年ですが、そこで死体が発見されて」
「ああ、憶えてますよ。新聞に載ってましたからね。なんでも被害者は若い女性だったとかいう、あれでしょう」
運転手はしきりにうなずき、手馴れた首肯の心地よいリズムが、男の口の重さを徐々に減らして行く。
「それで、こんな時間になんでまた」
「なんでも死亡推定時刻と被害者の女性が道路脇の崖下へ遺棄されたのが、いまからちょうど一時間後くらいだそうで」
「それじゃお客さん、警察関係の方ですか」
「とんでもない、そんなんじゃないです」
「じゃあ、探偵さんだ。犯人もまだ捕まっていないらしいから、独自に調査してくれなんて遺族から依頼されたかなんかでしょう」
「いや、そんなんでもないっていうか……」
男は先を促すようにむけられるバックミラー越しの視線にさらされたまま、素性をあかしたものかどうか迷っていた。運転手の気持ちも分かる。警察でも探偵でもない人物が事件現場へ行くとなれば、じゃあこいつはなんなんだ? と、なるのが当然。けれど、現場ではタクシーを待たせるつもりだから、自分の仕事振りを観察され、帰路は根掘り葉掘り底をさらうまで口撃は止まないだろう。
ならば先手を打つべきだなと、男は意を決した。
「あの、運転手さん。……霊感とかって信じますか」
「唐突になんです、お客さん。わたしは自慢じゃないが、借金を抱える身分でしてね。そういった勧誘なら、よそでお願いしますよ」
「ああ、いや、そうじゃなくて、実際に感じることが出来るんですよ、俺。死んだ人が死ぬ間際に残した思念とか、強く集中すると」
「お客さん、本当なんですか」
「ええ。今回はその女性が亡くなった時刻に、その場所で、残された思念を探ってみようと……。まあ、たしかにこれを生業にしてるんで、遺族から謝礼はもらいますけど」
「こりゃあ驚いたもんだ。長年タクシーを転がしてますがね、お客さんのような方は初めてですよ」
運転手は、またもしきりとうなずく。
てっきりあざ笑われると思ったが、すんなり理解してくれたようだ。男はホッと肩の荷をおろすと、安堵からタバコに火をつけようとした。
「申し訳ないけど、お客さん。車内は禁煙なんですわ」
「そうでしたか、すいません」
「いえいえ、わたしも吸いますからね、気持ちは分かります。おっ、そうだ。いい物がありますよ。口がさみしいなら、おひとついかがです」
差しだされた小振りのバスケットには、飴がいくつか入っていた。
「いいんですか」
「ええ、どうぞどうぞ」
「それじゃあ、遠慮なくいただきます」
「女房の手作りなもんで味のほうは保証しかねますがね、お客さんのような方へのサービスってやつです」
飴もほどよくとけた頃、展望台への坂道を登っていたタクシーは指定された待避所へ入ると停車した。
「お客さん、着きましたよ」
道路脇の崖下は吸いこまれそうな闇がひろがり、目測で深さをはかることは出来ない。
「ほら、ちょうど一本だけ背の高い杉の木のあたまがぼんやりと見えるでしょう。あの杉の根元あたりなんですよ、金目の物を盗られた挙句に殺されたって女性が発見されたのは」
男はガードレールから身を乗りだす格好になり、だらしなく口をポカンと開けていた。
「お客さん、思念ってやつを感じてますか。しかし仮にそんなものが残っていたとしても、あの女性は考えることが出来たんでしょうかね」
運転手はおもむろに工具を振り下ろすと、男の足首をつかんで勢いよく持ち上げた。
「……最後の瞬間に、飴にまぜた薬で混濁する意識でもって、わたしのことなど」
暗闇にまぎれて消えた男のあとを、からっぽの財布とバッグが崖下へと追いかけて行く。
「どちらにしても、やっかいな目に遭うのはごめんなんで念には念を入れておきませんとね。お客さん、ご乗車ありがとうございました」
乗客を降車させたタクシーは空車の表示を輝かせ、待避所から滑らかに発車した。