頭上注意

          頭上注意
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 ボトッ。
 まどろんでいた私の耳元に、なにやら落ちてきたようだ。
 暗闇のなかに手を伸ばし、それを二つ探り当てる。手の平におさまりやすい肉厚の丸みをおびた三角の形状。おそらく、これはおむすびに違いない。
 ドスッ。
 再び音もなく落ちてきたものが、えぐるように脇腹を直撃した。苦痛に喘ぎあえぎ探り出し、手に取る。くそっ、どうやら缶飲料のようだ。しかも、スチール製ときている。
 これらが、朝食ってわけだ。
 脇腹を押さえながら円形に浮かぶ小さな空を見上げると、その小さな空のなかに、こちらを覗き込んでいる人の影があった。
「底のお方、今朝は女房が寝坊しましてね。おかずはないけど、勘弁してくださいよ」
 そう言い残し、返事すらする間もあたえず、その男は慌しく小さな空の縁へと消え去った。
 まただ、なぜすぐに行ってしまうのだ。私がこの穴の底に落ちてから、いつもそうだ。「ロープを垂らしてくれないか」。言い出す暇さえ与えられないこの言葉が、苛々と足踏みを続けているというのに。
 丁寧に包まれていたラップを剥き、おむすびを一口かじる。うまい。なんて絶妙な塩加減なのだろう。私はおむすびを心ゆくまでかみ締めながら、缶飲料を開けた。中身は緑茶だった。これも、うまい。しかも、ホットだ。冷えた体には、この温もりがこたえられない。
 これでもう、四日目か。山菜を摘もうと遠出をし、慣れない山歩きで足をとられて斜面を滑り落ち、迎えるように口を開けていた深い穴の底へと真っ逆さま……。けれど、私は生きていた。こんな穴の底でも、なんとか命だけは繋がっている。なんの予告もなく、頭上から誰かが食料を投げ込んでくるからだ。
 飢える心配はないようだが、救助の方はどうなっている……。暗く深い穴の底でまたもそんな思いを巡らせていると、頭上から子供たちのヒソヒソと話す声が降ってきた。まさに、千載一遇のチャンスだ。
「なあ君たち、頼むからロープを垂らしてくれないか。後はなんとかするから」
「やばっ、みつかっちゃったよ」
 これまで酷使してきた喉から絞り出されたかすれ声のせいか、子供たちを驚かせてしまったらしい。子供たちはさっと小さな空の縁へと引っ込んでしまった。だが、その場を立ち去ろうとはせずに、息を潜めてこちらの様子を窺っているようだった。
「お願いだ、一本でいいんだ」
 私の声は届いているはずだ。しかしなんの返事もないまま、しばらくヒソヒソ話と衣擦れの音が続き、時おり拒否しあう声が混じった後、ようやく少女の声が返ってきた。
「あのう、ごめんなさい。無理なの」
「いや、そんなことを言わずに、探してきてくれないか。誰かの家にはあるだろう」
「だめなの、それに遅刻しちゃうから」
「……ああ、そうか、これから学校なのか。それじゃ、先生を呼んできてくれ」
「そんなことしたら、先生に叱られちゃう」
「なにを馬鹿な。人の命がかかっているってのに、先生が叱るわけないだろうが」
 焦燥と苛立ちから、つい声を荒げてしまう。冗談じゃない。こんな時になにを言っている。
「ねえ、おじさん」
 泣き出してしまった少女をかばってのことだろう、あらたに少年が声をかけてきた。
「おじさんは、ささげ人なんだよ。だから、だめなんだ」
 なに、こんどは一体なんの話だ。
「おじさんが穴の底にいてくれないと、お祭りが出来ないんだよ。何年かに一度しかないお祭りなんだけどさ、おじさんに心のヨゴレってやつをささげて清めてもらうのを、村のみんなが待ってるんだ」
 おいおい、いい加減にしてくれよ。子供の作り話になど付き合っていられるか。
「ああ、わかったよ。さあ、ロープを頼む」
「だから、だめなんだ。村のみんなより低い穴の底にいる人じゃなきゃ、意味がないんだよ。それにヨゴレってやつを清めるには、おじさんに封じてもらわないと」
「もういいから、はやくロープを……」
「だからね、必要ないんだってば。おじさんには、そこに埋まってもらうんだから」
「ふざけてる場合じゃないんだぞっ」
「ふざけてなんかないよ。だって、お父さんが言ったんだもん。それが村のみんなの幸せのためだって。それで、それでぼく……」
 少年の声はみるみる涙声になり、弱々しく消えてしまった。
「こらっ、お前たち学校はどうしたんだ。早く行きなさい、授業が始まる時間だぞ」
 私が再び口を開こうとした矢先、荒々しい足音が響いたかと思うと聞き覚えのある声が怒鳴り、子供たちは追い散らされてしまった。この声の主は、おむすびを投げ込んでいった男に違いない。
「なあ、底の人。子供たちが一体なにをしゃべったか知らないが、気にするこたあない。忘れてくんな」
「まったく、冗談にもほどがある」
「ははは、子供ってやつは想像力が豊かなもんですなあ。……さてと、それじゃあ」
 堆積した落ち葉を踏み、足音が動き出す。
「おい、ちょっと待ってくれ。頼む、ロープ一本でいいんだ。なあ、助けてくれ。ここから出してくれよ」
 湿った土の壁を必死に掻きながら叫んだが、男は去ったようだ。どうしてだ、どうしてこんな穴の底へ留めておこうとする。
「そうそう、ひとつ言い忘れてましたよ」
 小さな空の縁から突然突き出された男の顔には、いやに厳かな雰囲気が漂い、緊張が貼りついていた。
「わたしの女房はね、もともとは友人の女房だったんですよ。それがまた、いい女でしてね。わたし、どうしようもなくって、ほんのちょっとばかりいじったんですよ。友人しか使わない車を、本当にちょっとだけ」
「なぜ、そんな話をする」
「なに、ちょいと予行をね。なんせ曲がりくねった山道が多いこの辺りじゃ、ブレーキの故障は命取りになりますもんで」
 溺れる者がもがくように、私は円形の小さな空めがけて死にもの狂いで手を伸ばし、むなしく土を掻き落とした。何度も。何度も。
「……ありがとう御座いました、底のお方。それじゃあ、また」
 しばらく黙り込み私を見下ろしていた男は、囁くようにそう呟くと、そっと去っていった。
「くそっ、くそっ、……くそっ」
 しかし、これは気のせいだろうか。崩れゆく土塊が、私の足元で厚みを増しているように感じるのは……。