方向おんち

          方向おんち
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 三途の川のほとりで一人、私は途方に暮れていた。
 どうやら、また道を踏み違えてしまった。
 引率者に導かれて四十人ほどで渡し舟に乗って対岸へと渡る予定が、初めての風景に目を奪われて好奇心に逆らえず、ついふらふらと……、気がついてみれば、私は霧が濃くなりだした河原に取り残されていた。
「あんた、いったい何やってんのよ」そんな女房の声が、今でも耳元に響いてくる。
 私は、そば屋の店主だった。だが、腕のよい親父から引き継いだものの、先代の味じゃないからと客足は減り、店は傾き始めた。苦肉の策として出前の範囲を拡大してみたが、私は根っからの方向おんち。出前先の玄関でのびてしまったそばを突き返されるのはまだよい方だった。なんせ出前先に辿り着くことの方が稀だったのだから……。
 耳元の声を払い除けながらあてもなく河原を歩いていると、前方に渡し舟を見つけた。その舟には多くの人たちが乗り、今にも出発しそうだった。慌てて桟橋を駆ける私に、渡し守が大きな声を張り上げた。
「ああ駄目だめ。あんたさんみたいな人は、この舟には乗れませんや」
 思わぬ拒否の言葉に、私は腹を立てた。
「そんな怖い顔で睨みなさんなって。こちらの方々がショックを受けちまいますよ」
 確かに舟に乗っている人たちは、私にたいして不思議と怯えた様子だった。
「あんたさん、また派手に事故ったもんだ。いいですかい、この舟には自然死の人しか乗れない決まりなんでさ」
 なるほど。水面にうつる自分の姿を見て、私も卒倒しかけた。頭が激しく割れている。
 それにしても、情けない話だ。私は、みずから命を絶とうと思っていた。閑古鳥のさえずりに身を任せて営業時間中から酒を飲み、女房の小言には手を上げて応え、無言の涙に居場所をなくし、賭け事に興じても負けるばかりで、結局は店に舞い戻って酒を飲む。そんなことを繰り返すうちに借金がかさんで店と家屋を失うことになり、何もかもが嫌になって、私は死のうと決心した。
 だが、本当に情けない話だ。出前用のバイクで決めていた死に場所に向かったものの、案の定道を間違え、さ迷い、夜中になって疲労困憊していたところへ、センターラインをオーバーしてきた車と正面衝突。私は方向おんちのせいで、みずから命を絶つことすら出来なかったのだ。
 けれども、それはそれでよしとしよう。過失は相手の側にあるのだから、女房が私にかけていた保険金も充分におりるはずだ。私が死んで金を受け取れるなら、それがせめてもの罪滅ぼしになるだろう……。
「お気をつけなさって、あんたさん」
 渡し守の声は、どこか遠いところから聞こえてくる。すでに舟は行ってしまった。
 私は再び河原を歩きだしたが、ふと足を止めた。三途の川の向こうに、かすかだが対岸が見える。川幅はたいして広くなさそうだ。乗るべき舟を探すのも面倒だし、これなら行けそうだ。私はざぶざぶと分け入ると、三途の川を泳ぎだした。
 なんとしても泳ぎきる。そう決意は固めたが、一向に対岸へと近づけず、不安だけが募っていた。それがいけなかった。不安から息が乱れ、水を吸い込み、激しくむせ返った。三途の川で溺死するか知らないが、私はパニックになり方向感覚を失いながらも、死にものぐるいで泳ぎに泳いだのだった……。

 ……心地よい明かりに、私は目を開けた。これがあの世だろうか、いやどうも違う。ここは病室ではないか。……すると、戻ってきたのか。確かに溺れはしたが、なんとか岸には辿り着けた。そして、前方に見つけたぼんやりとした明かりに向かって歩き、その明かりに包まれ、こうして目を覚ました。
 ……またしても私は、道を踏み違えてしまったらしい。
 かたわらには、椅子にもたれて眠る女房がいた。目の下にはくまがあり、頬はやつれている。私は泣いた。本当に迷惑も心配もかけてしまった。せっかく臨死体験までして戻ってきたのだ。これからは、人生をやり直そう。……もう一度、女房と二人で。
「あんた……」
 私の嗚咽する声で起きてしまったのか、女房は目を見開き、驚いた表情をしている。
「すまなかった」
 私がそう告げる間もなく、女房は生命維持装置に手をかけていた。
 ……私は、大ばか者だ。 
 女房は、一人だけでやり直したいようだ。