日をめくる

           日をめくる
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 病室のカーテンの隙間から、傾き始めた午後の日差しがもれている。
 おれは椅子に腰掛け、すやすやと寝息をたてているジイちゃんを眺めていた。
「検査の結果だけどな、ジイさんにはもう手の施しようがないとかで、もってもあと二ヶ月らしい」
 声を詰まらせ、涙を浮かべた親父から聞かされたのが、たしか二ヶ月と半月前だった。
 ジイちゃんは、癌の専門医に引かれた余命のラインを悠々と超えてしまった。年齢のせいか入院していることすら時おり忘れてしまうけど、おれはジイちゃんの生命力の強さに感じ入り、担当の医師と顔を合わせるたび、どうです? これがおれのジイちゃんなんですよと、心のうちで言い、胸を張っていた。
「おうおう、来とったのか、おはよう」
「おはよう、ジイちゃん。よく眠れた?」
 二ヶ月半の入院生活を送るうち、ジイちゃんは昼寝やうたた寝から目覚めた時でも、朝を迎えたと思うようになっていた。
「一日の始まりに、感謝、感謝、だな」
 昔からの口癖を言うと、ジイちゃんはベッドの柵に吊るしてある日めくりカレンダーを一枚破り捨てた。十二月三十日と印刷された紙切れがひらひらと床に舞い落ち、今日一日で過ぎ去った一週間分の紙切れに加わった。
「そうだ、お前にやるお年玉の用意をしないとなあ」
「ほんと? うれしいな、ありがとう」
 おれはゴミ箱に紙切れを捨てながら、微笑みを浮かべたジイちゃんに返事をした。本来なら正月は数ヶ月も先だし、二十歳を過ぎてからお年玉をくれたこともないけど、ジイちゃんがそう言うのなら、それでよかった。
 一日のなかで何度も眠りから目覚め、そのたびに日をめくり、新たな一日の始まりに感謝を捧げる。何十年も繰り返してきた毎朝の日課を行うことで、苦しんでいる姿を見せようとしないジイちゃんが少しでも活力を得られるのなら、たとえ朝じゃなくたって、おれは何回でも、おはようと声をかけてやりたかった。
「すみませんが、検温と身体の位置を変えさせていただきますので……」
 看護師からの言葉に席をはずし、おれは入院病棟にある待合室のソファーに腰を下ろすと、缶コーヒーを開けた。
「費用も馬鹿にならないって言うのに、親父はいつまで入院させられるのかね……」
 ちょうど真向かいに座っていた夫婦が、おれに一瞥をくれた後、声を落しながら中断していた会話を再開させた。
「いいじゃない、お義父さんを家で面倒見るわけにも行かないんだし、施設に入れるにしてもお金はかかるんだから」
 見たところ、おれの両親と同じくらいの世代らしい。
「なんとかならんかなあ、親父もすこしくらい気を使って、はやいとこ……」
「人聞きの悪いこと言わないで下さいよ、あなた」
 たしかに、気持ちのいい話じゃない。その場に居合わせた入院患者や見舞い客たちも、ばつが悪そうに顔を背けたり、聞かない振りを決め込んだりしている。
 待合室での話題すら選べない夫婦のおかげで、やけにコーヒーが苦く思え、据え付けのテレビにも集中出来ず、胃まで重くなってきた。おれは待合室にいる気をなくし、そそくさと病室に戻った。すると看護師は、とっくに仕事を済ませてくれていた。
 二日前に大部屋から個室へと移され、その意味するところを暗に知らされていたが、再び眠り込んでしまったジイちゃんの寝息を聞いていると、実感なんて湧いてこなかった。
 ジイちゃんは、また新たな朝を迎えようとしている。おれはなるべく音をたてずに、新品の日めくりカレンダーを柵に吊るした。
「ごめんな、ジイちゃん。おれには、こんなことしかしてやれなくて」
 おれはこれまで、慰めの言葉も、励ましの言葉も、かけてこなかった。
 目覚めるたびに朝を迎え、日をめくり続けるジイちゃんに、どんな言葉をかけてやれば心穏やかな最後を迎えさせてやれるのだろうか。それが分からないから、おれは、おはようとしか言えなかった。情けないけど、これからも言い続けるつもりだ。
 カーテンの隙間から、夕焼け色の空がのぞいている。そろそろ、日が沈むようだ。
「おうおう、来とったのか、おはよう」
 ジイちゃんが、目を覚ました。穏やかな微笑みに、どうしようもなく胸が詰まった。
「おはよう、ジイちゃん。よく眠れた?」
 そうして、ジイちゃんは日をめくる。