迂回路

           迂回路
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 毎朝通る道が工事中の看板でふさがれ、迂回路を知らせる紙が貼られていた。
「まいっちゃうなあ」
 紙に書かれた道筋を、目で辿る。
「本当にいいのかな、この道で……」
 看板の右手から迂回路に入るらしいが、そこはどこからどう見ても、築四十年は経ていそうな家の玄関だった。
 他の道へ回るとなると、いつもの急行電車に乗り遅れてしまう。遅刻は確実だし、上司は狭量な人だ。こうなったら、仕方がない。
「ごめん下さい」
 玄関を開けてみるが、誰も出てこない。けれど、家の奥からテレビの音が聞こえる。玄関も開いているし、誰かしらはいるようだ。
「いいんだよな、通っちゃっても……」
 廊下には土足で歩いても平気なようにシートが敷かれ、突き当たりの壁にいたっては“順路→”と書かれた紙まで貼ってある。
「ええと、おじゃましちゃいます」
 テレビの音に負けじと存在を示すために鼻歌を奏でつつ廊下を進んで行き、奥の部屋へと通じている半開きの障子戸を開けた。
「あらあら、よくいらしたわね。おはよう」
「あっ、どうも、おはようございます」
 そこには、老婆がいた。にこにことこちらを見ながら、アジの開きをつついている。
「お兄さんは、朝ごはんはお済みなの?」
「ええ、はい。あの、朝食中にすいません」
 老婆はそしゃくしながら頷くと、スライスしたリンゴが盛られた小皿をすべらせた。
「よかったら、デザートにどうぞ」
 よかったらと言いつつも有無を言わさぬ雰囲気に押されて、一切れご馳走になる。
「なんだか、ほんのりしょっぱいですね。母の田舎の家でも、たしかこんな味だったな」
「すぐに茶色くならないよう、少しだけ塩水につけておくのよ。切り分けた後にね」
 なるほど……と、感心している場合ではなかった。普段から、駅まで二十五分もかかるのだ。迂回路でどれだけの時間がかかるか分からないし、あまり長居はしていられない。
「もう行くのかい? それじゃ、頼まれてくれないかね。このリンゴを、この先の田嶋さんに渡しておくれ。どのみち通るんだから、ね、ね、ね」
 ラップをかけた小皿を片手に勝手口から出て、先を急ぐ。順路を書いた紙は丁寧に短い間隔で貼られている。おかげで迷うことなくくねくねとした裏路地を通って破れた板塀の隙間を抜け、あらたな家の庭先に入った。
「……おはようございます」
 カラカラとガラス戸を開けると、この家でもシートが敷かれていた。
「あの、おじゃましちゃってます。どなたか、おられますか」
 寂しいほどの静けさを、ときおり咳き込む声が破っている。どうやらシートが導いているこの先の部屋にて、咳き込んでいるようだ。
「失礼します。あの、これ預かってきました」
「そうかい、そうかい」
 寝室らしい部屋のなかには、布団の上で膝をさすりながら煙草を吸っている老婆がいた。
「リンゴは、どこへ置きましょうか」
 煙を吐き出し、手を伸ばす。だが、この部屋のなかまではシートが敷かれていなかった。
「……あらためまして、おじゃまします」
 靴を脱ぎ、小皿を手渡す。それにしても、自分は一体なにをしているのだろうか……。
「悪いねえ、わざわざ。そこで、悪いついでにもう一つだけ。薬を飲むのに、水をお願いできないかしら。どうも膝がねえ……」
 シャクシャクとリンゴを頬張る老婆に水を満たしたコップを手渡し、玄関から表へ出る。
「あれ、……この道は」
 そこは、いつも通っている道だった。しかし向かいの家の玄関には、その先の順路を書いた紙が貼られている。ここからいつもの道で行っても、駅まで十五分はかかってしまう。急行電車には、とうてい間に合わない。
「ああ、もう……」
 なるようになるさと、順路に従い玄関を開けた。途端に、膏薬のにおいが漂い出す。
「おじゃまします」
 ずんずんとシートの上を進んで居間へ。すると、今度は背中を向けた上半身裸の老翁が膏薬を手に持ち、ひらひらと無言のまま差し出していた。
「そうですか……、分かりましたよ」
 なんとか無言の指示をこなして膏薬を貼り終え立ち上がりかけると、袖口をつかまれ、やはり無言のまま物を握らされた。
「あれ、塩飴じゃないですか。懐かしいな」
 包装を破いて、さっそく口に放り込む。塩気と甘味の不思議なバランスが、塩飴好きだった祖母を思い出させる。
「……仕事、遅れるぞ」
 そうだった、こうしちゃいられない。無口な老翁が発した重い言葉の響きに急かされ、慌てて居間を出にかかる。
「待ちな」
 背中越しに、塩飴が投げてよこされた。
「嫌いじゃないんだろ、持っていきな」
 振り返りもせずに肌着を着始めた老翁の家の勝手口を出ると、そこには地味なジャケットを着た中年男性が立っていた。
「いやいや、ご苦労様でした。次の家の庭先を抜ければ、駅の裏通りに出られますよ」
 その男性に背中を押されるまま狭い路地を抜けると、あらたな家の庭先に入る。
「ええと、……このお宅は」
「ああ、我が家ですよ。それよりも、道々のお宅のみなさんは元気でしたか」
「……はあ」
「いやはや、自治会長なんぞを引き受けたのはいいが、なかなか一人暮らしの方々に目が届きませんでねえ。苦肉の策ですわ」
「あの、なにを仰っているんですか」
「どう考えてもおかしいでしょう、家のなかを通り抜ける迂回路だなんて」
「えっ、じゃあ工事中の看板は……」
「ははは、実際にこの迂回路を利用いただけるなど、期待していなかったのですがねえ」
「…………」
「さあ、着きました。この先が駅ですよ。意外と時間も短縮出来たでしょう」
 腕時計を見ると、急行電車の発車時刻の五分前だった。しかも、普段より余裕がある。
「これも、なにかの縁です。明日もぜひ、この道でお願いしますよ」
 ぺこぺこと何度も頭を下げつつも、自治会長宅の裏木戸はなかば強引に閉められた。
「明日もぜひって……、困ったな」
 しかし駅に向かう途中、はっとして立ち止まる。よりにもよって、リンゴと塩飴のお礼を言い忘れたことに気づいてしまったのだ。
 だが、いまから戻る時間は……、なかった。